国土強靭化計画は愛
なかなか思うように進まない国土強靭化計画ですが、主な原因としては供給不足と言われています。
もちろん、供給不足であるのならば、供給量を増やす政策をセットで行わなければなりません。
例えば公共事業の入札額の引き上げなどです。
しかし私が感じる一番の要因は、国民の中に公共事業に対する根深い不満や反対があることが、進捗を邪魔する一番ではないか、そう思うのです。
もしも国民が公共事業の必要性、重要性に気がついているのならば、公共事業の入札引き上げなどは、容易に実行に移せるからです(微量ですが引き上げれているようですが)
では、なぜ国民は公共事業に反対なのでしょうか?
それはひとえにインフレ期における公共事業の拡大政策の失敗と、公共事業につきまとう既得権という不公平さ、そして最後に合理という魔物のせいではないか、そう私は考えています。
まず一つ目のインフレ期における公共事業の拡大は、そもそもインフレ状態(需要よりも供給が少ない)において、財政出動を行えば、さらなるインフレを招く事となります。これが後にバブルという悪夢を我が国に与えるわけですが、経済学の見地からすれば、明らかな間違いであったことは言うまでもないでしょう。
ケインズ的公共事業政策の根幹は、あくまで市場の安定化を謀るためのものであって、過度な需要を生み出すことではないのです。ここをはき違えると、ケインズ=間違えであるという誤解が生まれてしまうのです。
そしてまさにバブル崩壊後は、その誤解によって、ケインズ政策が否定され、それに取って代わるように、レーガノミクス、サッチャーイズムに代表されるような、新古典派経済学が我が国の主流経済学となってしまったのです。
これはまさに公共事業を否定し、市場に任せ、自由競争することが是とする考えです。それによって我が国はデフレへと突入してしまったわけですが、現在,その反省もなく、さらなる構造改革や規制緩和によって、市場の力を増幅させようとしています。
これではデフレ脱却どころか、よりデフレは深刻化させてしまうでしょう。
ですから、インフレ期とデフレ期と私たちは分けて、公共事業を考え直さなければならないわけですが、そこが未だにインフレ期の公共事業失敗の意識から脱していないことから、このような公共事業批判に繋がっているのでしょう。
第二に、公共事業による既得権益の問題です。確かに公共事業は、入札制度などはありますが、市場の原理とは明らかに異なります。なぜならば市場は、そういった需要をそもそも生まないからです。
そうなると、受注をうけた業者は、本来市場にはない需要をによって自動的にその利益をむさぼれるわけです。これが競争社会の中に生きる、他の国民達の不平不満を招いたのでしょう。
しかしマクロ的に考えれば、市場が必要無いからと言って、国家として必要無いとは言えないのです(これもある種の合成の誤謬です)
ですから、市場が出来ない(手を出せない)ことを国家がやろうとすれば、必ずそこに既得権が生まれるのは、致し方のないことであり、そもそもそれを否定することは国家の否定に繋がります。
にもかかわらず、未だにそういった既得権に対する反感が強いのはなぜでしょうか?それは戦後のアメリカ支配による、自由平等個人主義という教育に侵された国民の国家観の欠如によるものではないか、そう私には思えます。
このような国家観の欠如は、自分だけ良ければ良いという自己中心的な傲慢性を生み出し、平等を楯に権利ばかりを主張するようになるわけです。
こうなれば当然、既得権の塊である公共事業も矢面に立たされてしまう羽目になるわけですが、私からすれば、これほど自分勝手な思想はないのではと思うほど、視野の狭い考えにほかなりません。
国家とは、そもそも国民の家です。その家の管理をせず、その中に住んでいる住人が、好き放題にして、誰も家の管理費を出さなければ、いずれその人々も好き勝手になど出来なくなるはずです。
あくまで自由な経済活動の基盤は、その家(この場合、インフラストラクチャー)であり、その維持こそ、国体の維持そのものなのであり、私たちの生活そのものなのです。
こういった意識さえ持てれば、既得権はある意味、必要悪として受け流す事は可能なはずです。
そして最後に、合理という魔物に私たち日本人が侵されていると私は感じてなりません。
合理というのは、字の如く、理に合ったことをするという意味ですが、もしもこのように、合理だけで社会が形成されて行けば、それこそ愛の無い世の中になるでしょう。
例えば地方の疲弊の問題です。地方は確かに物流など様々な点において、都市部よりも合理性に欠けます。
だからといって、その合理に従い、地方を切り捨てたらどうなるでしょうか?私たちはこの狭い国土の中で助け合いながら生きて行かなければならない宿命を持った民族です。
災害、戦争、その他の様々な危機から、今まで我が国が生き残り、繁栄してきたもの、ひとえにそういった助け合いがあったからこそなのです。
そういった過去を学ばず、合理を優先するなど、私からすれば愚の骨頂であり、自己中心的であり、愛がなく、しいてはそれは自らに返ってくる問題であると思うのです。
以前にも紹介しましたが、ニーチェは、「合理主義ほど非合理的なものはない」が正しく我が災害の多い日本と言う国には、当てはまるのです。
そこを踏まえれば、国土強靭化というのは、地方のインフラも含めて国家のあり方そのものであり、私たちの家をどう住み良くするかという私たちの根幹の問題なのです。
そこを蔑ろにするなどと言う事は、私たち日本人の否定であり、冒涜であると私は考えています。
地方の人、都市部の人、それぞれが一体となって初めて我が国の国体は維持でき、そしてそのためには、利他的な愛なくしては不可能であるわけです。
逆説的に、それをもしも否定するのならば、それこそ愛のない人や国ということになります。
そんな人々が大勢いる国に未来はあるでしょうか?
今一度、そのような視点で国土強靭化というものを見てみてはいかがかとこのようなブログを書き記してみました。