超デモクラシー | ひより

超デモクラシー


今日の我が国の民主主義(デモクラシー)というものを考察したとき、私は一言、「風」である、と思わず嘆きたくなる。


風とは、ふわっとした民意であり、そこに真理を追求しようとする思想は一切介在しない。


言うならば、風によって齎せるデモクラシーは「言葉を纏った欲望」でしかなく、真理を追求する思想を根幹とした自由主義的デモクラシーとは、全くの別物である。


オルテガはこのことについて、大衆人による超デモクラシーと表現した。


大衆人とは、まさにこの風を担う者たちなのだが、大衆人の特徴は、自己閉鎖性と傲慢性であって、言い換えればその根幹には自己中心的であるが故に、少数派の意見を抹殺し、賢者の意見にも耳を傾けず、己を完全な存在と意識、無意識に関わらず認めているものである(もしも自分が不完全であると言うのならば、なぜに賢者の話に耳を傾けないのだろうか!)




当然ながら、他者という存在は、物質的でしかなく、自分の未熟さを埋める存在にはなり得ない。あくまで自己完結した中で、それが正しいと思い込み、他者にそれを押し付けるのだ。



逆に非大衆人は、自己に対して沈潜し、また自分は不完全だということを痛いほど認識し、その不完全を少しでも改善したいと願い、その改善に向かって学び、努力する者たちである。


当然、自己は不完全だという前提があるわけで、他者は、その自己の不完全さを補うためには不可避な存在であって、他者に対しての敬意が内包されている。



もちろん、その他者が大衆人であり、その言葉に論理性もなく、「言葉を纏った欲望」に過ぎないのであれば、そのような他者や組織に耳を傾ける必要などない。


しかしながら、一個人としての人間は、どこまで行っても不完全そのものであり、完全(神)にはなり得ないのである。


それはまるで一人の人間が、図書館の本を全てを読み、理解出来ないのと同じように、我々の生は、世界と歴史という広がりと時間軸の中では、微々たる経験を積めるに過ぎないのである。


このことを理解しているのならば、まずは自分自身の未熟さ、不完全さを前提とせざるを得ないことが十二分に認識できるであろう。



しかし残念ながら、その自己閉鎖性と傲慢性を持った大衆人はそこが根幹から欠如しているのだ。



そしてあたかも自分たちが民意であり総意であると自認し、直接的に政治へ訴えていく。これを日本的な言い回しで表すのであれば「分をわきまえない」である。



昔は、それぞれに「分」があり、完全な分担があり、自分だけで生きている、という傲慢性が入り込む余地は無かった。



それは、ある種、「慎ましく生きる」と、他者への「敬意」というものが、自然と身につく環境であったと言えよう。



しかし現代においては、その環境が一変し、「一人で生きている」と錯覚するほど、技術は革新し、産業は発達し、一部の人間だけがその恩恵を預かっていた時代ではなく、平均人がそれらを享受する時代に至った。



この事が、生きる苦難から人々を解放、回避させ、同時に他者の存在意義を亡くさせた大きな要因の一つではないだろうか。



それは個人個人がその連帯ではなく、分離した存在となり、言い換えれば孤立化し、その本来負うべき社会的義務が曖昧となり、与えられた権利だけを当然として主張するようになったわけだ。


またその自己閉鎖性によって、自分自身の未来ならまだしも、国家的マクロの中長期ビジョンなどには、一切の興味もなく、またそれらを想像できる解釈学的知識や想像力も持ち合わせていないのだ。


そしてこの集合体こそが、大衆であり、その大衆人達によって我が国の超デモクラシーが発生しているのであると考えれば、小泉改革、政権交代、脱原発、グローバリズムなどの社会現象の説明は付くだろう。



そしてそれらの超デモクラシーに応じるように、政治家はその場しのぎ的に、目の前の状況の変化にしか対応出来ず、たとえ未来に、その遺恨や問題が先送りになり、また積み重なったとしても、そこに責任を持とうとはしないのである。



このような事から、超デモクラシーは、「大衆による日暮らし的専制政治」とも言い換えられるかもしれない。


そう考えると、本来の自由主義的民主主義(デモクラシー)というのは、物質が飽和し、誰もが生の存続が容易になった産業革命後、その本質は霧散し、今や形を変えて、超デモクラシーとしてその姿を露にしたことで、完全に失われたと考えられるのかもしれない。