可能性の否定がバカを量産する | ひより

可能性の否定がバカを量産する


「高等教育を受ければ受けるほど人間はバカになる」なんて言葉もあるが、人間というのは、面白いもので、権威や地位に非常に弱く、それによって思考停止する傾向にある生き物のようだ。


例えば東大の教授がこう言っていたから、とそれを信じきってしまい、それ以上の答えを探そうとしない。所謂、知らず知らずのうちに、可能性の否定が行われてしまうのだ。


かの松下幸之助が、「私は小学校2年生までしか学校に行っていなかったから、何でも人に聞けた」というようなことを話していたが、これもある種、高等教育はその逆で、東大に行ったから、という自尊心によって、わからないことを人に聞けない、という弊害を生むのだ。



話がやや逸れたが、そもそも可能性の否定をする頭はどのように造られていくのだろうか。


私は大きく、二つ理由があると思う。


一つは情報の多様性と恣意的情報(操作)の氾濫である。


そしてもう一つが教育である。



まず情報の多様性と恣意的情報(プロパガンダ)だが、戦前の教育はよく、このプロパガンダによって日本が戦争に走ったとされているように聞かれる。


しかし実際の所はどうか、もちろん、そういった側面があったことは否定できないが、少なからず情報が少ない分、そのリテラシーは高く、そこから想像、分析する能力は高かったように思える。


例えば車の運転だが、マニュアル車に乗るのと、オートマ車に乗るのはどちらが簡単だろうか。当然オートマ車である。これは人間が本来やるべき動作を車が代替してくれるからだ。


しかし、それによって運転する人間の技術はどうなっただろうか、明らかに退化していると言わざるをえないだろう。


情報も同じように、あればあるほど無関心になり、また想像、分析する能力が削がれていくのではないかと思う。



また同時に、限られた情報の中で、その情報が誰かしら恣意的に操作されたものであるとするのならば、それはそれで危険をはらんでいると思う。


よく、団塊世代は思考停止しているだとか、戦後体制そのものから脱することができないとか言われているようだが、私はこの世代こそ、GHQによって操作された情報が朝日、毎日新聞や、日教組によって強制的に与えられ、その他の選択肢というものが少なかったゆえではないかと推測する。


では現代はどうか、ネット、既存メディアなど、恣意的な情報、正しいであろう情報、間違った情報が氾濫していると同時に、世代によっては未だにかなり偏ったメディアだけでしか情報を得ないということも起きている。



するとどうなるだろうか、情報の多様化によって無関心を生み、また偏った情報だけに頼って、ある種の洗脳と思考停止を生み、また情報の多様化によって様々な分析を行える人間を生むことになる。


このように全体としては複雑化しているが、その内訳を想像するに、やはり多くの無関心と過去の遺産と言うべく洗脳を生んでいるように思えてならない。


この無関心というのは意外に厄介なもので、情報が右から左に流れていくと同時に、より上手いプロパガンダに流されてしまう傾向にある。


無党派層などというのは、まさにこの無関心が生んだ層と言っても過言ではないだろう。



結果、恣意的な情報を擦り込まれ、漠然とそれが正しいと判断する。言い換えると、テレビが言っていたから、エラい学者やコメンテータが言っていたから、という思考停止を生み、自らそれら以外の可能性を否定してしまっている。


同様に、情報に洗脳された人々も同じような事が言えている。特に熱心にそれらを聞いてしまった人間ほど、それは強固で、それ以外の可能性を頭から否定するし、何より今までの経験論というものがそこに加わるから尚更厄介だ。


ある友人が、「ディベートしてるときに、レスポンスが妙に良い相手が居て、自分には真似できない」と言ってたが、このようなケースのほとんどが、上記の可能性の否定が行われているパターンだと言っていいだろう。


なぜならば、本来は相手の話を自分なりに咀嚼する時間が嫌でも必要になるからだ。それがなく即答できるのは、よほど頭の回転が良い人間か、そもそもどんな素晴らしい話を聞いても、自分の考え(経験論も含め)が100%正しい(可能性の否定)と思い込んでいるかのどちらかだろう。



また教育もそれらリテラシーや可能性の否定、肯定に大きな影響を与えているのは言うまでもないだろう。



初めに書いたように、真面目な学生ほど「先生が言ってたから」という水戸黄門の印籠で、「ははぁ~!」となってしまうのだ。


幸いにも私は先生というものが嫌いであったし、そもそも先生を疑う癖が幼少期からあったおかげで、水戸黄門様の印籠効果はほとんど受けずに済んだのだが、そのようなケースは稀であろう。


それだけに、親や教師が、自らそれ以外の答え、所謂、可能性の肯定を示唆した上で教育すべきであると思う。



例えば、今は地球が回っているとされているが、10年後には、地球は流れている、という理論が正しくなる可能性がゼロではない、と言った風にだ。


もちろん、その可能性は極めて低いと思われるが、少なからず、万が一、そういった情報を得た時に、そういう可能性を肯定している頭であれば、しっかりとそれらを咀嚼することが可能になるかだらだ。


逆に、地球は絶対に回っている!という断言によって、それ以外の可能性を放棄させる教育こそ、バカを量産すると私は考えている。



そしてこうした積み重ね(高等教育となると、少なからず16年間)が、よりそれ以外の可能性を求めなくなる思考を生むのである。


当然、そういった不の経験を積めば積むほど、その頭は強固になるのだが、それは教育が終わり、社会に出ても経験論という形において同様の現象を生む。




だからといって、もちろん、学校に行くなとは言わないし、先生の言う事は聞くなとも言わない。


問題なのは、それらを聞いた後、しっかり自分なりに一人ディベートできるような思考回路に教育すべきだと私は言っているわけだ。


最後に


多くの人が、情報が氾濫していても、自分の中で全てを疑い、全ての可能性を肯定し、分析できるようになれば、きっと民主主義というものも、満更悪くないものになるかもしれない。