グローバリズムと保護主義について | ひより

グローバリズムと保護主義について


小泉構造改革やアベノミクス第三の矢(成長戦略)であったり、世の中や世界の大多数を占めるグローバリズムだが、私はこのグローバリズムの全体主義的流れに、非常に懸念している。



その理由は色々とあるのだが、まずグローバリズムというのは、1927年の世界大恐慌で一度は失敗に終わっている。


それがまた復活し、ユーロ圏という形でまたヨーロッパを席巻し、それもまたギリシャなどの財政破綻などを招いていることから、もはやグローバリズムというのは、経済学的に失敗政策だったことは、過去を顧みれば明白なのだ。



にも関わらず、世の中が懲りずにグローバリズムに突き進むのはなぜか?



その根底にあるのは、合理主義の台頭であると私は考えている。



グローバリズムというのは、人、物、金、ルールを統一化することだ。もちろん、その求める所は、合理化以外の何者でもない。


ニーチェが「合理主義ほど合理的でないものはない」と言ったが、私もそれに賛成である。


なぜならば合理主義と言うのは、保護主義と相反するものであり、それぞれの国の安全保障であったり、過去から受け継いだ伝統であったりを合理化の名の下に破壊するものに他ならないからだ。


例えば、自衛隊や消防士が必要なのは、有事や災害時のときだけだ。それを合理主義者達は確率論の下、削減しようとするだろうし、農業やエネルギー、道路など、安全保障に必要なものまで、合理化、改革という名の下、その保護を解こうとしているわけだ。





またその国で培われたルール(常識、伝統)も、合理化には邪魔なものだ。全ての国が同じルール、常識でやることこそ、合理的であると考えれば、左翼思想の「友愛」などという馬鹿げた言葉も生むのだろう。




そして、それらが席巻した結果どうなるかと言えば、いざと言う時にその有事に対処できず、喩えるならば裸で真冬の雪の中を歩くことになる。まさに、これほど非合理なことはないではないか。



ちなみに京都大学の藤井聡先生が、この保護主義を壊そうと目論むグローバリズの全体主義について、


「我々国民は皮膚を奪われ、血管や神経が丸出しの中で生活しなければならなくなる。これはまさしく国民に対するテロルである」



そう表現しているが、まさに合理主義=グローバリズムの行く末とはそういうものなのだろう。



また、藤井聡先生は、「今の世の中は、戦争という露骨な殺人(テロル)から隠蔽され自ら直接手を下さないテロルへと形を変えているだけで、何も本質は変わらない」とも言っている。




実際、世界的な合理主義、グローバリズムのプロパガンダにより、格差が生じ貧困で死んでいったり、本来ならば防災で死なずに済んだ人々など、多くの犠牲がこれらプロパガンダとテロルによって生じていることは、言うまでもないだろう。




もちろん、私も完全に保護主義一辺倒になれ!と言っているわけでもなければ、グローバリゼーションを否定しているわけではない。また全体主義もときに正しい場合があることも理解しているつもりだ。



しかしながら、それにはあくまで保護すべきものがありきでの話であって、保護主義=すべて悪であると言ったようなプロパガンダを吹聴するような勢力を認めたわけでもなければ、あえてグローバリゼーションという現象を、グローバリズムという主義に変え、自ら傾倒していく必要はないと言っているのだ。



このように考えると、やはりまずは、国家を保護するということを第一に掲げ、その前提において、その国々が過去から受け継いだ守るべき物はしっかり守り、また新たに攻めるべきものは攻める、というバランスが非常に大事になってくるように思える。



このような、当然の考えが残念ながらメディアや多くの新自由主義者、合理主義者には通用せず、またそれら勢力が多大なプロパガンダによって国民を欺き、国民に自ら自分の首を締めさせるような選択をさせているのだ。



これをテロルと呼ばずに何と表現すればいいのだろうか。私にはわからない。



最後にこのような全体主義が行き着く所は、「プロパガンダとテロル」であるということを断言して、文章を締めくくろうと思う。