日本の教育を今一度考えてみる。
息子が小学生になり、巷で言われているような様々な教育問題が現実のものとして眼前に現れるようになりました。
以前にも書きましたが、過剰な男女平等教育や、間違った歴史認識などはその最たるものです。
これら教育を行う背景には、間違いなく日教組の中のフェミニストや自虐史観に捉われた左翼思想の人間達が関わっています。
それも、一般的な方々に気づかれないように、それでも着実に確実に、その思想を子供達に植え付けているのです。
その代表的なものが、君、ちゃん付けではなく、子供達への「さん」付けや、徒競走などでも男女合同参加、優劣の無しなどでしょう。
確かに、小学校低学年では、男女の性差はさほどありません。徒競走にしても、女の子が男の子に勝つ事も、珍しくはないでしょう。
しかし、だからといって合同でやる必要がどこにあるのでしょうか?
ミニマム級のボクサーでもフライ級のボクサーに勝つ事だってあります。それでも、階級を設けているのは、ルールを守った上で、健全な社会(スポーツ)が育つという観点からでしょう。
しかしながら、今は、明らかな立場の違いや、性差、能力の差があったとしても、強い者が勝ち、弱い者が負けるのは仕方が無いといった社会になりつつあります。
市場原理主義(新自由主義)などはその最たるものでしょう。
こういった世界的な流れや考えが、フェミスト達の目論みと一致し、さらなる男女の性差を無くして行こうという方向に教育を向かわせているのです。
以前、安倍総理が「瑞穂の国の資本主義を目指す」とおっしゃっていました。
しかし、こういった教育が果たして瑞穂の国の資本主義の未来を担うべく子供達の教育としてふさわしいでしょうか?
私はそうは思いません。
古い考えと言われてしまえばそれで終わりかもしれませんが、幼い頃から、強いものは弱いものを助け、男は女を守り、女は男を支える、そういった教育こそが、瑞穂の国の資本主義には必要不可欠だと思うのです。
戦前の教育がいかにも軍国主義の洗脳教育と揶揄されがちですが、戦前の教育にはこうした男女の性差を認め、助けあう教育が根付いていたことを私たちは忘れてはならないと思うのです。
何でも欧米に倣い、フェミニズムやグローバリズムなどという瑞穂の国にはふさわしくないものを率先して採用していく国や教育機関には、正直、憤りを感じてなりません。
もちろん、それは歴史認識も同様です。戦争の悲劇を教える事は決して間違ってはいませんが、それを過剰なまでも自虐的に教える必要はありません。
先人達が、まだ見ぬ子供達(我々)のために、命を賭して、戦い、散って行った歴史としっかり向き合い、感謝と敬意をこれからの世代にも受け継いでいく責任が私たちにはあるのです。
個人的には、硫黄島が一般公開されるようなことがあれば、ぜひ、修学旅行地として、多くの子供達が訪れ、そういった歴史を学ぶ場となれば良いと思っています。
そして、どこの国にも模範とされるような、「瑞穂の国」を目指すことこそが、私たち日本人が誇りを取り戻すことに繋がり、さらには、それでこそ、散って行った先人達に、真の意味で顔向けできるのではないでしょうか。
ぜひ、教育者にはそういった観点をもって教育に当たってほしいと切に願います。