心のコップの中に水を | ひより

心のコップの中に水を




男女の繋がりは、時としてこれ以上ないほどの深さになり、人生を有意義にすることもあれば、





それが虚構であったと目が覚め、愕然としたり憎悪することもある。





また、例え関係が終わってしまったとしても、その繋がりが切れることなく、





心で繋がっている場合もあれば、一人大事に心にしまっておく人もいる。





私はそれらを話すとき、「心のコップ」とそこに注ぎ込まれる「水」で表現している。





私たちは心を持ち、その心にはコップがある。親密に、また真剣に相手を想い、愛することで、



その心のコップには、水が溜まり、心が満たされていくものなのだ。




しかし、その中に入っているべき水が、実は偽物(虚構)であることもある。




いや、恋愛の多くは水に見える空気(虚構)なのかもしれない、とも思う。




またそれは一方だけで注ぎ込まれるものでもない。




双方が相手の心に、丁寧に少しずつ時間をかけて注ぎ込むものなのだ。





そうして注ぎ込まれた本物の水は、私は決して一気にこぼれ落ちてしまう柔なものではないと思っている。




例え嫌な別れ方をしても、それぞれの道を歩んだとしても、コップに一度注がれた水はそう簡単には無くならないものなのである。




と、同時に、それでも人は前に進んで行かなければならない。新たなコップに水を注ぎ、また自分も新たなコップを用意し、注いでもらい、また自らも自らのコップに水を注ぐ努力をして行かなければならないのだ。





そうすることで、少しずつではあるが、最初に持っていたコップの水は、自然と蒸発を始め、(もう足されることはないのだから)新たに注ぐ水は、長い時間をかけて過去を上回って行くのである。






当然、それは簡単に出来るものではない。とくに満タンに入ったコップが、例えそれ以上に足される事はなくとも、また自然蒸発しようとも、その重みは決してゼロにはならず、永遠にコップの中に残るからである。







そんなのは未練がましい!と思われるかもしれない。









しかし、それが人間の心だと私は思っている。






失礼かもしれないが、女性も男性も、別れた後に憎悪が生まれたり、どうでもよい人になってしまったりするような関係は、そもそも互いに水など注がれていなかったのである。



また注がれてると勘違いした虚構であったのだろう。




それらは虚構であるのだから、そもそも自然蒸発もしない。別れた途端にゼロに戻るだけなのだ。





だからこそ、次に行けるのだ!という人も居るが、私はそういう人ほど、同じ過ちを繰り返し、




次もまた、コップに虚構の水を注ぎ続けるのではないか、そう思うのである。







このような私の意見には賛否があるとは思う。





ただ、私は全てにおいて、真剣に、夢中になって相手と向き合わない限り、そのコップに本物の水が注がれることはないと思っている。





そしてそれは決して自己満足ではなく、相手の幸せを考えたものでなければならないとも思う。











ま、そんなことを昨日、嫁と夜遅くまで語ったのだった。