ニーチェの提言
こないだ、ある人に、「ブログの「哲学」の文章が難しすぎて、もう少しわかりやすくというか、読みやすく書けないの?」と聞かれました。
はい、書けます。しかし、あえて書かないのです。
では、なんで書かないのか?
それにはある理由があります。
それを説明するにあたり、かの有名な哲学者のニーチェがなぜキリストを批判したのか、についてお話したいと思います。
ご存知の方も多いと思いますが、ニーチェはキリスト教について、過剰なまでの対抗心と批判を繰り返していました。
それを私なりに読み解くと、彼はキリストを批判していたのではなく、キリスト教を批判していたように思えます。
言い換えると、聖書を批判していたのではなく、キリストの弟子達が広めた、新約聖書を批判していたのです。
では、なぜ彼が新約聖書を批判したのか?
それはキリストの書いた、聖書に遡らなければなりません。
キリストは、一般的に宗教と捉えられていますが、私から見ると、彼は宗教人でも何でも無く、
一人の哲学者だと思うのです。
そしてキリストという哲学者が書いた最高傑作こそ、哲学書の、「聖書」であったのです。
しかしこの哲学書である聖書にはある欠点がありました。
それはキリストが、多くの人にわかりやすく書こうとした結果、事の本質にたどり着ける人間ばかりではなく、上っ面の部分だけを理解したり、
また、抽象的表現が多く、受け手の勝手な主観による解釈が可能になってしまったのです。
それによって、本来、キリストが伝えようとした本質がねじ曲げられ、弟子達が作った新約聖書によって、布教とビジネス性が増してしまったのです。
まさに、ニーチェはこのことについて、批判しているのです。
と同時に、ニーチェはキリストに対して、激しい嫉妬心も抱いていたように思えます。
それは、なにより彼が、キリストの書いた哲学書「聖書」の本質を、誰よりも理解していたからに他ありません。
そして、それがねじ曲げられた事に対する怒りと、ねじ曲げられてしまうような、(誤解されるような)書き方をしたキリストに対し、
「俺ならあんな書き方をしない!なぜお前はあれだけ人間の本質にたどり着きながら、あんな書き方をしたんだ!」と憤ったのでしょう。
いや、もしかすると、キリストに対し、「こう書けば良かったんだ!」という提言を心の中でしていたのかもしれません。
このエピソード(私の解釈ではありますが)は、まさに、主観と客観という前回書いた内容に重なりますが、
わかりやすく書く事は、例えそれが、純客観的であっても、受け手からは、その人間の主観として、また受け手の勝手な主観によって解釈をねじ曲げられ、その本質が見えなくなってしまうという危険性をはらんでいるのです。
ですから、私はあえて、自分自身の主観部分を極力排除するような、あのような書き方、文章をにするのです。
もちろん、私の考えている哲学は、科学だけでは立証できないことも多く、それを主観だと切り捨てられることもあるでしょうし、それ以上の哲学が存在するかもしれません。
しかし、あのような文章にすることで、少なからず、感情的(非論理的)で、一貫性や整合性の取れていない反論を避ける事は出来ます。
それでも、私が批判を恐れてるわけではありません。
きちんと私を論破してくれるような提言は大歓迎です。
このような理由があり、私があえてあのような文章方法を取っていることをご理解いただけたらと思います。
はい、書けます。しかし、あえて書かないのです。
では、なんで書かないのか?
それにはある理由があります。
それを説明するにあたり、かの有名な哲学者のニーチェがなぜキリストを批判したのか、についてお話したいと思います。
ご存知の方も多いと思いますが、ニーチェはキリスト教について、過剰なまでの対抗心と批判を繰り返していました。
それを私なりに読み解くと、彼はキリストを批判していたのではなく、キリスト教を批判していたように思えます。
言い換えると、聖書を批判していたのではなく、キリストの弟子達が広めた、新約聖書を批判していたのです。
では、なぜ彼が新約聖書を批判したのか?
それはキリストの書いた、聖書に遡らなければなりません。
キリストは、一般的に宗教と捉えられていますが、私から見ると、彼は宗教人でも何でも無く、
一人の哲学者だと思うのです。
そしてキリストという哲学者が書いた最高傑作こそ、哲学書の、「聖書」であったのです。
しかしこの哲学書である聖書にはある欠点がありました。
それはキリストが、多くの人にわかりやすく書こうとした結果、事の本質にたどり着ける人間ばかりではなく、上っ面の部分だけを理解したり、
また、抽象的表現が多く、受け手の勝手な主観による解釈が可能になってしまったのです。
それによって、本来、キリストが伝えようとした本質がねじ曲げられ、弟子達が作った新約聖書によって、布教とビジネス性が増してしまったのです。
まさに、ニーチェはこのことについて、批判しているのです。
と同時に、ニーチェはキリストに対して、激しい嫉妬心も抱いていたように思えます。
それは、なにより彼が、キリストの書いた哲学書「聖書」の本質を、誰よりも理解していたからに他ありません。
そして、それがねじ曲げられた事に対する怒りと、ねじ曲げられてしまうような、(誤解されるような)書き方をしたキリストに対し、
「俺ならあんな書き方をしない!なぜお前はあれだけ人間の本質にたどり着きながら、あんな書き方をしたんだ!」と憤ったのでしょう。
いや、もしかすると、キリストに対し、「こう書けば良かったんだ!」という提言を心の中でしていたのかもしれません。
このエピソード(私の解釈ではありますが)は、まさに、主観と客観という前回書いた内容に重なりますが、
わかりやすく書く事は、例えそれが、純客観的であっても、受け手からは、その人間の主観として、また受け手の勝手な主観によって解釈をねじ曲げられ、その本質が見えなくなってしまうという危険性をはらんでいるのです。
ですから、私はあえて、自分自身の主観部分を極力排除するような、あのような書き方、文章をにするのです。
もちろん、私の考えている哲学は、科学だけでは立証できないことも多く、それを主観だと切り捨てられることもあるでしょうし、それ以上の哲学が存在するかもしれません。
しかし、あのような文章にすることで、少なからず、感情的(非論理的)で、一貫性や整合性の取れていない反論を避ける事は出来ます。
それでも、私が批判を恐れてるわけではありません。
きちんと私を論破してくれるような提言は大歓迎です。
このような理由があり、私があえてあのような文章方法を取っていることをご理解いただけたらと思います。