会話における主観性と客観性について
「会話における主観性と客観性について」
人々の会話の中で、また、自分自身が関わる会話の中で、私が常々思うことがある。それは相手の話す内容に、どれほどの客観性があるのか、または主観性があるのかである。
もちろん、どちらが悪いとか良いとかいうレベルの話ではなく、その主観の整合性や、客観の論理性と言ったものをこちらが読み取ることで、会話の本質に迫れるからである。
では、その前に、主観とは何か、客観とは何かについて理解しなければならない。
主観というのは、様々な表現方法があるが、わかりやすく言えばミクロである。もちろん、それに相対する客観はマクロである。
ミクロというのは、その主体が抱く感情や経験論によるもので、その小さな世界の中では、似たような境遇や感情を抱けば、その相手との共鳴が可能であるが、それがイコール全体へとは波及しないものである(もちろん、教育や洗脳によって波及することもあるが、それらは本質的ではない)
それに対し客観は、本質的に、それら主観から切り離して、社会的論理性を持たなければならない。例えば目の前にある「赤いバラ」を「血のように赤い服をレイヤーのように纏ったもの」である、とは言わないのである。言い換えると、誰にでもある程度(例外はあるが)共通認識できることが前提である。
しかしながら、一般的に、この客観性と主観性は、会話の中では明確な区別はなく、現実としては、話す対象がそれで理解出来ればそれで良いのも事実である。
それでもその会話の中で、それら個人の主観を完全に双方で共有出来ることなど、むしろ稀であろう。大体の場合は、互いの主張をぶつけ合うだけで、ある種の自己満足感を得ているだけである。しかしそれでは、全く以てストレス発散以外に、本質的議論はなされることはない。そのようになれば、結論も出ずに、互いの主張が平行線を辿るだけで、建設的議論にはならないのである。
それではどのようにして、建設的議論をすべきなのか。それにはまず、相手の主張が主観を中心とした論理性の欠いたものなのか、または、主観のようにみえて、非常に客観性と論理性のある内容なのか、明らかな客観性のある話なのか、そこを見極めることから始めなければならない。
それにはまず、自分自身から、思い込みという名の主観的感情を取り除く必要がある。いくら相手が客観的かつ論理的な話をしようとも、それを聞く側の主観が強過ぎると、それらの判断がつかないからである。
もう一つは相手に対する表象を取り除くことである。例えば、相手が有名企業の社長であるだとか、著名人であるだとか、そういった表象を前提としてしまう限り、その対象が伝えようとする本質に迫る事は出来ない。
言い換えると、相手が誰であろうとも、その言葉がどのような論理性、または感情論や経験論を元に発せられているかを冷静に判断するべきなのである。
しかしながら、人には他人を見る以上に、自分自身を客観的に見ることはできないものである。喩えるならば、自分という存在を自分が見れないことで、自分自身が既にただの主観的存在でしかなく、その主観というフィルターを通してでなければ、相手の客観性を見ることはできないのである。
それ故に、自分自身(その主体)の客観性が低ければ低いほど、そのフィルターは分厚く、また、高ければ高いほど、そのフィルターは薄いのである。
特にその主体の感情や自尊心、自意識などは、フィルターをより分厚くさせてしまう一番の要因であろう。それだけに、相手から発せられる言葉の本質を見抜くためには、まずそれらを極力排除すべきである。
そして自分自身を客体と捉え、相手との論理性の違いを明確にしなければならない。それが可能となれば、相手の会話の、客観と主観とその論理性は、いとも簡単に読み取れるであろう。
しかし、何度も繰り返すが、そこが明確な区別が付かないゆえに、相手が非常に客観性と論理性を持ち、その相手の主観ではない内容にも関わらず、それを相手の主観と決めつけるような愚かな過ちを犯すのである。
特にそれは、感情が強い女性、社会的地位や名声といった間接的なものに踊らされている人間ほど起こりやすい。それは先に言った通り、感情やその人間の経験や自尊心、自意識こそが、自分及び相手を客観的に見ようとする視点を削いでしまうからに他ならない。
「それはあなたの考え方でしょ?」とその会話を完全主観で決めつけた瞬間、それが例えすばらしい客観的論理を持っていたとしても、一文の価値にも値しなくなるのである。
わざわざ私がこのような煩わしい書き方をする本当の意味も、実はそこにあることを一部の読者は既にお分かりかもしれないが。