人間に在るものについて | ひより

人間に在るものについて

「人間に在るものについて」


 人間に在るものは、まず、生まれた瞬間から得ていたもの、さらには後天的に得たものが在る。さらにそれを直接的に在るものと、間接的に在るものに分類する。
 大きく分けると、この四つで構成され、それぞれが複雑に絡み合いながらも、個体によってある種のプライオリティーが確実に存在するのである。
 そのプライオリティーがどこに在るのか、それこそがその人間の本質を見抜く上で重要な要素になっているのではないか、そう私は考えるのである。
 ではまず、生まれた瞬間から在るもの、得たものについて述べるとする。人は生まれた瞬間に、境遇という不平等が生じる。一例を出せば、貧乏な家庭に生まれたのか、裕福な家庭に生まれたのか、それだけでもその後の人生設計には大きな影響がある。
 さらには遺伝子である。両親の遺伝子が優秀なのか否か、それもその個体に与える影響は大きく、本人のその後の努力だけでは解決出来ないものである。また、健康か否か、それもまた、生まれたときに左右されることもある。
 しかしながらそれら全てに左右されて人生が在るとは言い切れない。先にも言った通り、後天的に得たものが在るからだ。
 その後天的に得たものにもまた、地位や名声といったものから、知性、感性、忍耐力、行動力などといった精神的分野や健康維持などもあり、それらが元々得ていた在る物にかぶさるように、その人間を構成していくのである。
 では、ここで直接的に在るものと、間接的に在るものについて述べたいと思う。
 直接的に在るものというのは、置き換えると死ぬまでの間、普遍性が在るものである。例えば、その個体が先天的もしくは後天的に得た精神力であったり、身体の丈夫さであったり、知性や感性であったりは、その時々の状況に左右される事無く、基本的には死ぬまで普遍的に存在し続けるものである(肉体は弱ってはいくだろうが、、、)
 それに対し、間接的に在るものは、金銭や地位、名声など、状況によっては一瞬にして奪われかねず、流動性と一過性を持つものであり、直接的に在るものと相反するという意味では、非普遍的であるとも言い換えられる。
 しかしながら、本質的にはそうであったとしても、現実社会においてはその本質がイコールしないこともある。よほど親の財産を散財するだとか、築いた地位や名声を失うほどの失態をしないとか、そういった配慮さえあれば、それについてある程度の普遍性は担保されているのである。
 では、それら仮に担保された間接的に在るものが、直接的に在るものへ、また逆も含め、どう影響を与えるか、という問題を考察してみたい。
 まず間接的に在るものから直接的に在るものへの影響は、過信、嫉妬と言ったネガティブなものや、それを反面に取ったポジティブなものに分類できる。
 例えば、地位や名声を偶然的に手にし、また生まれたときから在る程度それらを手にしていた場合、それが当たり前に存在し、また、それが自分の才能であったと勘違いし、それを中心に物事を判断してしまうようになる。
 もちろん、それに気づき、反面的にそれら間接的に在るものを抑制し、直接的に在るものを優先させようと試みることも、その個体によっては可能だが、それらは極めて高貴であり、それらを実行に移すには類希な知性を要すか、もしくは、その個体が経験しうる最大の試練を味わったかのどちらかか、その両方であろう。
 言い換えると、それら間接的に在るものから直接的に在るものへとベクトルを向けることは、非常に困難なのである。 
 では逆に、間接的に在るものが社会的に、また相対的に無い状態から、(逆説的に直接的に在るものしかない)間接的に在るもの、そして直接的に在るものへはどういった影響を与えるのであろうか。
 ここにもまた、嫉妬や諦念といったネガティブな要素がある。社会的相対評価が劣等であると錯覚し、そういった感情を生み出すからだ。
 しかし、その一方で、無いものを得ようとする精神(反骨心など)は生まれやすく、それがうまく機能したとき(間接的なものではなく、直接的に在るものへと意識的に移行出来た場合)その個体は、間接的に直接的に在るものを得た事になるのである。
 また、無いからこそ、自分に在るものを伸ばそうとする意識も芽生えることも十分に考えられる。それはある種の諦念とも受け取れるが、見方を変えれば、非常に良い環境だったとも言える。それは間接的に在るものに惑わされることが無いからだ。
 それでもそういった人間はごく一部に限られ、ほとんどの人間が相対的に間接的に在るものを得ている人間に対する僻と、自分自身もそれを得ようと、ある意味、無駄な努力をし続けるのである。
 ではここで、間接的、直接的に在るものがどれほど重要で、どれほど重要ではないものなのか、またその比率はどうあるべきかについて考察していきたいと思う。
 まずこれらを考察するに当たって、やはり外せないのが社会性である。この世の中が社会のルールに乗っ取っている以上、そこに影響を全く受けずに個人が生き続けることが困難であるからである。
 さて、この社会の中で最も重要とされていることは果たして何だろうか。地位だろうか、名声だろうか、金だろうか、はたまた強靭な精神力や肉体であろうか。
 その答えははっきり言って、前者の間接的に在るものである。わかりやすく言えば、金や地位や名声名誉などの非普遍的なものである。
 では、なぜそのようなものが社会の中で最重要になってしまったのだろうか。その原因をひも解くと、社会の希薄さにたどり着く。言い換えると、社会の中での人間関係では、直接的なものまで踏み込む時間的猶予が無いとも言える。
 ある賢人が、「人が人を本当の意味で理解するには、一生で一人が限界である」と言っている。むしろ、彼はそれすら不可能であると言っているのだ。
 まさにこれこそが、社会における人間関係の限界を示し、また社会がそこを捨て、表面的なものに特化してしまった要因であるといえる。
 このことからわかるように、社会の中での自分以外の対象というのは、表層部分のさらに表層でしかない、と断言出来るのである。
 しかしながら、ある特定の個体同士の関係性については、表層の表層であるとも断言出来ない。それは人数が減った(マクロからミクロへと変化)ことで、時間的にも、またその対象への関心や、興味が増し、その対象の言動などによって、在る一定の深さまでは到達可能なのである。
 そうなった場合、プライオリティーはむしろ間接的に在るものから直接的に在るものへとベクトルが向くのである。
 ただ、それには社会的に過剰な間接的に在るものを保持している者の場合を除く。それは、あまりにもそれらが過剰、過大であると、それが全面に押し出され、直接的に在るものへと向かう前に、対象に対する意想を他者(社会)が決めつけてしまうからである。芸能人などの著名人はまさにその意想によって決めつけられているケースが多いのではないだろうか。
 そして、それら意想は、その個人(対象)の直接的に在るものとは無関係に、そして社会では間接的に在るものだけで構成されるようになる。これを社会人と呼ぶにふさわしいが、決して名誉あるものではないと私は思うのである。
 例えばビジュアルが優れている(間接的かつ先天的に在るもの)というだけで、もて囃されたりすることは、その個人の直接的に在るものを無視しており、言い換えると、その個人の本質すらも無視していることに繋がるのだ。もし、それらのことに気がつける賢者がいるのであれば、心底彼は傷心し、社会に絶望を抱くであろう。
 ここまで話して社会というものがいかに希薄な間接的に在るもので構成されているかがわかると思う。
 しかしながら、人間の生と死において、本来これらは、さほど重要な問題では無いのである。社会が増幅した結果に、それもまた錯覚として増幅してみえるだけであり、本質的な部分は普遍であることに変わりはない。
 特に、個人と個人の間に生じる関係性においては、よりその本質が顕著に現れるし、その個人が死を意識する状況になって初めて、直接的に在るものは間接的に在るものよりプライオリティーが高くなったりもするのである。
 いわゆる、強靭な精神や、柔軟性、行動力、決断力、知性、感性、バランス感覚、生命力などは、社会での評価にはさほど大きな意味を持たない一方(それによって地位や名声を得たとするならば別)、本質的に人間が生きる死ぬという面においては、間接的に在るものに比較出来ないほど、重要な要素なのである。
 このように考えれば、その比率というものをどう考えていくべきかということがわかってくると思う。
 社会生活においては、在る一定の間接的に在るものを有効に活用しつつ、その反面、普遍的な直接的に在るものを磨いていく。それこそ人間の叡智ではないのか、そう私は考えるのである。