出会いの必然性について | ひより

出会いの必然性について


 
 
 「出会いの必然性について」

 人と人との出会いは、必然なのだろうか、それとも偶然なのだろうか。その問いについて、私はじばしば考えることがある。もちろん、出会いに無駄はないという考えに沿えば、それは必然であるのだが、果たしてそうなのだろうか? という疑念がいつもつきまとうのだ。そこで私はこの出会いの本質についての考察をするにあたったのである。
 まず、出会いを現実(事実)と形而上に分けて考えてみたいと思う。
 例えば、現実として誰々と出会った。というのは、ある種の偶発性と必然性との区別がつかない。それ故に、偶然そこにいた、もしくは、必然的にそこにいた、という判断は、様々な個々の要因がわからない限り、判別できないのである。
 しかしながら、それらをひも解くと、ある種の必然性も垣間みれたりする。それらは個々の人間行動学や、精神行動によってはじき出されるものであるが、それでも必然性と断言するには脆弱な根拠と言わざるを得ない。
 言い換えると、現実においての出会いを明確な必然性であると判断することは、非常に困難であり、また不可能であるようだ。
 そこで私は、それらを形而上的に絞って考察することにした。
 では、形而上的に「出会い」とはどのようなものなのか。それをひも解くに当たり、やはり人間の死を無視できない。いわゆる、肉体と魂を分けて考えなければならないということだ。肉体同士の出会いは、言い換えると現実であるのに対し、魂同士の出会いは、形而上なのである。
 この魂とは何か? については、先に述べた「死について」でも触れているが、やはり宇宙との関係性が非常に高いと思われる。ダークマターやダークエナジーに質量があるとわかった今、魂という存在を完全に否定できず、また魂の浮遊ということがあり得るのである。
 この浮遊する魂の質量は、想像するに、空気を1兆kgとするならば、1mg程度なのであろう。
この場合、物理的には魂は空気中を移動することは魂に意志と動力が無い限り不可能である。
 しかし、もしもそこに何らかの意志が加わったと想定するならば、また、肉体の質量を借りて、移動するというのならば可能なのである。
 前者については、なんら根拠の無い仮説(妄説)であるが、後者については、肉体が滅びてさえいなければ、その肉体を使った移動など容易いのである。
 もちろん、その肉体に別の意志があるとなると話は変わる。しかし、魂と肉体を切り離して言うのならば、肉体は所詮、魂の殻であり、そこには意志などないとも言い切れるのである。
 そして、その魂が魂の意志として、肉体を動かし、その動いた先に、「出会い」があると考えるのならば、その魂同士は、ある一定の必然性を持っていたと考えることも十分にあり得るのだ。
 例えば、別れた恋人と、地元でもない場所で偶然出会ったとする。これは現実としてはただの偶然と片付けられる話であるが、魂同士の繋がりと見れば、妙な必然性を感じるのではないだろうか。
 逆にもしもそれが現実のみの偶然であるとするならば、とてつもない確率の偶然なのである。
 それでも私たちはそれに似た経験を数多くしているのである。(友人同士なども含め)
 これら超低確率にも関わらず、私たち誰もが経験しているとなれば、確率論の世界ではあり得ないことを実は私たちは体験していると同じなのである。
 そう考えると、現実としての偶然性を語るには、それを論破するだけの確率論をはじき出さなければならないだろうが、それはここでは控える。
 さて、話を元に戻すとする。小さな結びつきのような、まるでマイナスイオンとプラスイオンが互いを引き合わせるかのように、魂同士がある一定の結びつきを持っているとするならば、その時々の必然性によって、「出会い」があるという仮説は成り立つ。
 その仮説に乗っ取り、魂というのもが、その主体と異なる客体の魂に対し、部分的な同一化、もしくは、全面的な同一化が可能であり、また、部分的な分離、又は全面的な分離もまた可能であり、さらには、異なる客体を通し、さらに異なる客体と間接的に交わることも可能である。
 そのように、魂にある程度の流動性があると考えれば、浮遊し、引き付けられた他の魂と何らかの接点を持とうとすることもまた考えられ、それがある種の必然性という根拠となりうるのである。
 もちろん、これだけでは根拠というには、不十分であるのも事実である。では、どのような魂同士が引き付けられるのだろうか。
 これには、私たちが感じる、不快、快感を根幹部分(魂)が感じ、また意志として、それらを結びつけているのではないだろうかと推測できる。
 特に快感に関しては、物理的な激しい快楽ではなく、むしろ、自分では根拠の不明な、それでも胸が温かくなるような、そんな穏やかな快感である。
 不快もまた同じで、激しい不快というよりも、根拠の無い不快である。これらを一般的には生理的に受け付けないとか、気が合うとでも表現しているのではないだろうか。
 またそれら出会いには、片方だけの意志では、必然性が生まれないのではないかとも思える。それはまるで、一方のみに強いマイナスイオンがあっても、相手がマイナスイオンを発していれば、より遠ざかってしまうかのようでもある。
 しかし、この出会いも確固たる強固なものではなく、むしろ曖昧で、脆弱なものだと考えられる。それは夫婦が強い結びつきで出会ったのもつかの間、次の瞬間には、それぞれの道を歩み、その後は人生をまるで交錯させないのと同じようなものであり、また逆に小さく弱い結びつきでも、安定的な結びつきも存在するのである。
 このような魂の浮遊と流動性は極めて曖昧であると同時に、極めて必然的に、それら個々を結びつけているのである。
 それでも、そもそも魂に意志など無いと断言されてしまえば、それもまた必然性というには無理が出る。
 しかしながら、私たちは自分の意志とは別の部分で不快、快感を得ているのもまた事実で、それは夢の世界でも、出て来た登場人物によって、朝の目覚めが心地よかったり、不快であったりするのだ。これらは明らかに目覚めているときの意識とは異なり、無意識にそれらを欲求しているのであり、魂がそれらを欲しているとも言い換えられる。
 このように、人間における出会いには、現実としての偶然性の影に、形而上的な魂の必然的出会いが存在するのではないかと、私は考察を結論づけることにした。