今日、ほとんど何もない場所に行った。

(つまりは田舎、ということ)

 

冬枯れの田んぼが続く風景。

 

しかし今の時代、

「何もない」のは一種の価値だと思う。

 

 

 

もちろん「何でもある」のも価値だ。

乗れる電車がすぐに来て、

そこここにお店があって何でも買えて、

「こんなものもある」という情報が溢れている。

その状況に、どれだけ憧れたことか。

 

ただ、その状況になってみて

(完全にそうというわけではないが、

まあそれに近い状況ではあるので)、

感じること。

 

「何もない」を経験してこそ、

「何でもある」の価値を見出せる。ということ。

 

 

 

当然のことかもしれない。

でも、それを実感できるのは、

どちらも経験した人だけなのではないか。

 

 

 

私の出身地は、

田舎というほどでもないが

都会に出るのに2時間弱かかる場所だ。

車がなければ、生活はわりときびしい。

(もちろん学生時代は自転車必須だ)

 

高校は学区制ではないので、

2時間くらいかけて通学するのは

珍しくなかった。

 

なおかつ、

時代的にはスマホがなかったので、

移動時間は本を読むか、

ウォークマンを聞くか(書いていて懐かしくなる)、

ぼーっとするか寝るか、

という選択肢しかなかった。

 

何もない、とは言えないまでも

あまり何もない、状況ではあったと思う。

 

今思えば、

「不自由である」ことと「待つ」ことに

慣れていたなあと思う。

そういうものだと思っていた。

 

物事は思い通りにいかないということ。

ペースを合わせることができるということ。

意図しない情報を受け取らなくてよいということ。

手にした選択肢を大切にできるということ。

 

そういうのが、

何もないことの価値かなあと思う。