どんな考えをもち、どんなことを言うのだろう。







『一期一会』は、千利休の言葉だ。

「あなたとこうして出会っているこの時間は、

二度と巡っては来ないたった一度きりのものです。

だから、この一瞬を大切に思い、

今出来る最高のおもてなしをしましょう」という意味らしい。

(Wikipediaより)



中学生のころは、こんな言葉の意味は実感できなかった。

先生から贈られたり、

「好きな言葉」コーナーに誰かが書いたりと、

卒業アルバムに登場する回数の多い言葉だから、

見ることはあったのだけれど。

「出会いは一回きりのものだから、大切に」

と言われても、

実際に二度と会えないことにならなければ、わからない。



中学生のときは、卒業しても、みんなには

いつでも会いたいときに会えると思っていた。

いつでもずっとそのままで話せると思っていた。

また会い、楽しく話せる人のほうが少なくなることなど、

まったく思いもよらずに。


その、思いもよらなかったことが幸せだったと

気づくことさえ知らずに。





特に親しくもなかった人で、

ふと、あの人に会いたいなと思うときがある。


それは、

中学のとき1年間だけ同じクラスになった友達だったり、

高校のとき受験前の補習で3回だけ教えてもらった先生だったり、

浪人のとき先生への質問待ちで何回か喋っただけの人だったりする。



連絡先も知らず、知ろうとさえしなかった、

「ただ会ったことのある」人に。


ずっとあとになって思い出す、

という可能性さえ思いつかなかった人に。











『一期一会』の実感がわくということは、

そういうことなのかもしれない。


周りに常に味方がいた時間から

味方を選ばなければならない時間へと

自分が移行するにつれて、

過去の時間がどんなに貴重なものであったかを

自覚していくのだ。


敵をつくらなくてよい時間のなかにいること。

それこそが、守られているという証なのかもしれない。



また中学のときの話になるけれど、

「自由の裏には責任がある」

が口ぐせの先生がいた。

ほんとだな、と思う。

そしてその責任には、

望まないながらも、敵をつくる必然が秘められている。

そう思う。





そんなことを千利休が考えていたかどうかは知らないけれど、

時代としては、少なくとも、今よりもずっと

敵や味方の概念は強かったに違いない。

敵といえば本当に命にかかわる敵であるし、

味方にも命を奪われる可能性がある。


それでも、今でも人の心に残るような言葉を残したのは、

彼の器の大きさをもの語っているのかも知れない。

彼はきっと、人間が好きだったのだろう。



彼が現代に生きていたら。


「ネットもケータイもあるのに、

 『会えない』なんて言うのは自分の責任だ」

と言うだろうか。


「便利な道具があっても、

二度と会うことのない人がいるというのは

いつの時代も変わらない」

と言うだろうか。


それを受け入れ、自分で消化して納得してはじめて、

彼のようになれるのだろうか。