哲学・倫理学など、思想の分野では
単なる語句の記憶ではなく、
とりわけ正確な理解が求められるように思います。
ところが、かねてから思っていたことですが、
高等学校の倫理では
本来の哲学者(思想家)の意図した意味とは違った形で
受け取られ、説明されている事柄が沢山あるように思います。
もしかしたら、《受験の倫理》をクリアする上では
そのような微に入り細に入った正確な読解は
必要ないのかもしれません。
しかし、
兎角安易な理解に流されやすい
近年の傾向に私は危機感を感じています。
そもそも「本当の意味」などというものがあるのか、
作者(哲学者・思想家)の意図に辿りつくことなどできるのか、
といった根本的且つ現代的な問題が
大きく横たわっていることは否定できません。
この問題をいかに乗り越えるかということを
私はまだ考えられていませんが、
私がここで目標にしたいのは、
哲学者・思想家の書物や箴言を、
誤解無く、正確に読み解くことです。
いつまで続けられるか分かりませんが、
思うことのある限り、つづってみようと思います。
また、私は自分の読解に
できるだけ根拠を持たせたいと思います。
他方で、斯く言う私も読解に自身があるわけではありません。
また人一倍私に理解力がないことも事実です。
そこで多くの人からこの場を通じて正しい理解に
至ることが出来れば幸いです。
さて、今日は手始めにモーセの十戒(正しくは十誡だそうですが)
を取り上げようと思います。
高等学校の倫理では、どのように学習するのでしょうか。
この十戒の内容は、一般に1~4の項目と5~10の項目の間で
大きな質的差があると解されます。
一般に、1~4は神と人との間の契約で、5~10は人と人との間の契約とされます。
しかし、第5戒「父母を敬え」は、
ヘブライの伝統により父母が神と直接する目上の者一般を指すと解せば、
1~4の項目と6~10の項目のかけはしになっていると捉えうるそうです。
これは、関根清三先生の教えです。
問題は、十戒を日本語訳したとき「~するなかれ」という文言になりますが、
関根先生の著作によれば、
この部分の原語は、ヤハウェの愛に本当に気付いた者は「~しうるはずがない」
という不可能性の断定の表現なのだそうです。
だから、刑法や道徳と同じ次元でこの部分を扱ってしまっては
理解が不正確になってしまうことが分かります。
また、仏教など、他の宗教にも不殺生戒などがありますが、
これも同じ次元で扱ってはならない(=根拠が異なる)
ことは言うまでもありません。
この十戒の本当の解釈を知り、
私はとても驚きました。
以来、正確に物事を理解することの大切さを学びました。