容保公の評価として、會津戦争後のものが、
割と知られているかと思います。

曰く、
家臣からの人望は厚く、
開城後、江戸
に護送される際は、
家臣たちは断腸の思いで見送った。

一方、
下々には重税を課していたため、
領民たちの恨みを買っていたため、
見送りにくる領民はほとんどなく、
護送される藩主を見ずに仕事をしていた。

「英国公使館員の維新戦争見聞記」
を記した従軍医師のウィリアム・ウィリス
は、
「松平容保やその家臣たちが恩赦を受けても、 支配者として会津に戻ることは不可能」
 と手帳に記しています。

簡単に言えば、例えば、
西日本で災害があったから援助する。
そのために、税金が倍になる。
さらに、助けに行ったら、
伝染病にかかって帰って来た。
このくらいの状況でしたから、
領民が怒っても無理はありません。
他所も良いけど、うちはどうすんだ?
という話です。

ちなみに會津藩は、母子手当や産休など、
藩主の自腹で支給したり、大政奉還後も、
支給しています。
まあ、幕府に忠義を尽くし過ぎたのが、
政治力が無いと言われればそれまでですが
(泣)


ところが、會津史談会誌に載ってたんですが、
「容保公に帰って来て欲しい」
との嘆願書の記録があったそうです。
大分、略しましたが、知って欲しいです。


時期としては、敗戦後、

容保公父子が、東京に護送されて謹慎、

となった頃です。

領民達は驚愕し、悲しみと失望に暮れ、

「御赦免御帰城」の請願書を、

會津の民政局、東京の太政官等に提出。

この請願書運動は、翌年11月、

容大公が陸奥斗南へ移封となった後も、

続けられました。

嘆願書にはふたつあって、

一つは、

百姓惣代の東谷地村、上西蓮村など5ヶ村、

若松町人惣代として4名の連名。

内容は、

数百年の御恩をうけ一途な直心より訴える。

悲しみに沈み、日夜寝食を絶つ、

といった民の様子。

大勢の民衆が訴え出ることを、

代表の者が押し止め申し合わせの上で、

この請願書を提出する。

さらに、

領内の民の安堵のためにも、

何卒御領主の御帰城をお許し下さい。

という内容です。わかりますわ…

二つ目は、

岩代國耶麻郡木曾組を筆頭に6ヶ村の連名。

容保公や歴代藩主が、

これまで領民のために行ってきた政策、

・高齢者・病人・育児への福祉制度、

・天明天保などの飢饉や不作の年の援助

これを34条に書き連ねた上で、

「御領主の儀は二百余年の事につき、

身に染みて、

片時も慕う気持ちを忘れずにいます。

何卒哀憐の御沙汰をもって、

直ちに御帰城になりますよう」

と訴えています。


鶴ヶ城を落とした板垣退助が、

・會津は民との隔たりがあったから負けた。

もっと民を労っていれば…

としながらも、

・お前らのせいで會津は負けた

と、民に言っている、

この相反するような意見ですが、

どちらも納得出来ます。


要は、恩が薄かったところもあり、

恩が厚かったところもあり、

後は、民の考え方とかでしょうか。

ひとつ言えるのは、

そう言うことを知らず、

容保公を悪く言うヤツは○ね!

くらいです。




1893(明治26)年12月5日。
容保公は、第六天町の自邸で他界しました。
9日、自邸より出棺され、
当初、新宿の正受寺に葬られました。
(会葬者、約3200名)

その後、大正6年6月、
會津にある院内御廟に改装されますが、
その時の様子です。
この年の會津地方は、雨が多く、
中野竹子の碑の建立計画があったそうです。

尚、資料の読解力不足により、
間違いは御指摘下さい。
また、気付いたら直していきます。

なお、容保公の他に、七名が、
一緒に院内霊廟に埋葬されました。

・容大公(容保候長男・存誠霊神)
1910(明治43)年6月11日歿
没年齢40歳

・照姫(
照桂院殿心誉香月姉)       1884(明治17)年2月18日歿 
没年齢51歳

・愛比古(容保公の子、双子)
・敬比古(同)
明治8年(1875)3月3日
誕生日に死去

・美祢(容保公長女、清香院殿円誉明月大姉)
1909(明治42)年10月25日歿 
没年齢40歳
 
・容恭(かたやす、保男氏長男)
生・1911(明治44)年3月18日
没・同年                       5月9日歿 

・佐久(容保公側室、
瑞光院信誉智貞大姉)
1909(明治42)年8月29日歿 
没年齢60歳?(誕生日不明のため) 
  

【改葬の様子】
1917(大正6)年6月9日早朝6時25分。
雨天。
松平保男氏、妻の進子(水野忠敬娘)、
健雄氏、山川(健次郎)男爵、
出羽(重遠)大将、
他が随行者が予定通りに若松到着。
東山新瀧に投宿。

新聞などでは、
以下の様なお知らせがありました。

・若松市内各小学校児童5年生以上、
・旧藩士は勿論、一般有志
彼等に多数の出迎えをする事、
・各戸には旗を掲揚の事、
(弔旗か国旗か照会中→国旗に)
・駅の入り口には受付所を設けて、
出迎えの者の名刺を受け付ける。
・御着の際は花火3発を打ち上げ号砲とする。

一行は停車場から御廟へ赴き、
資格に応じて神式及び佛式の埋葬を営む。
それから新瀧楼に於いて朝餐佛事を行い、
再び御墓参において法要を行う。

当主の保男氏は、
海軍中佐の通常礼装に参謀肩章。
保男の奥方、令兄健雄氏、家宰、
海軍大将出羽重遠氏、帝大総長山川健次郎、
代議士白井新太郎氏、
其他、出迎えには約300名の
旧藩士諸氏、陸海軍将校、官民有志などが、
一斉に敬礼を表しました。

霊柩は二台。
一台は容保公の神霊、
他の一台は御七方の霊を安置。

容保公の御霊柩はもっとも荘重を極め、
重量も百数十貫。
與丁(担ぐ人)が数十人、大汗かきながら、
改札口を出るのにに約一時間。
ここで整列しました。

先頭から、
・国分警察署長ら警官。(若松署か?)
・相馬郡長、松本市長。 
・霊柩。
左右両側は、
・旧藩士数名、出羽以下陸海軍将校。
次は、
保男氏 、健雄氏、山川等の一行、
旧藩一同及び一般官民有志。
一同徒歩。全員草鞋履き。

道筋は、
新道より博労町三日町愛宕町、東山村に至り、
村民数十名の興丁が霊柩を馬車より卸し、
院内山上の廟地に移すが、
所要時間がまたもや一時間以上…

祭壇も二ヶ所で、
一は容保公、他は7名のためのもの。
保男氏は院内着後正装に御召替えして、
埋葬の式を開始。
容保公は壇前にて神式
7名は、神仏両式。
保男氏、奥方
、健雄氏、出羽、山川、
知事代理西牧理事官、
文武高等官、
旧臣諸氏及び一般人の礼拝後に埋葬し、
午前11時30分頃に終了。
保男氏一行は東山新瀧に投宿。

翌10日。
保男氏、奥方、家職、出羽、山川、
其他の随員と共に、
午前10時26分発の上り列車にて帰京。

色々と思うところもありますが、
今回はこれで。
明治5年までは和暦と西暦表記
敬称略

容保公
生・1836年2/15(天保6年12/29)
没・1893年12/5(明治26年)
退隠後は、祐堂(雅号)、芳山(法号)
死後の霊号は忠誠霊神。
余談だが、
芳山公の和歌を集めた、
「芳山公和歌集」
がある。


(姉)
松平照
生・1832年11/5(天保3年10/13)
没・1884年2/28(明治17年)


(正室)
敏姫
生・1843年(天保14年)
没・1861年(文久元年)
※八代目・容敬公の五女。


(婚約者)
前田禮子
生・1854年(嘉永7年?)
(日付不明で換算不確定)
没・1899年(明治32年)
※前田慶寧の娘。
1871年(明治4年に婚約解消)


(側室)
田代佐久
生・1846年(弘化3)
没・1909年8/29(明治42年)
※田村孫兵衞の娘

川村名賀
生・1844年(弘化元年)
没・1920年(大正9年)
※川村源兵衛の娘

※容保公の実子は、この二人しか産んでない


(養子)
⑩喜徳 
生・1855年12/1(安政2年10/22)
没、1891年6/3(明治24年)  
(期間)
1867年(慶応4年2月)
1873年8/22(明治6年)
※松川松平家へ養子に入るため、解消。

(実子)
田代佐久の子 
川村名賀の子

美祢
生・1869年5/2(明治2年3/21)
没・1909年10/25(明治42年)

容大(11代目当主)
生・1869年7/11(明治2年6/3)
没・1910年6/11(明治43年)

泡玉院
生・1873年1/23(明治6年)
没・同年    1/25

健雄(伊佐須美神社宮司)
生・1873年10/6(明治6年)
没・1927年7/19(昭和2年)

愛比古(双子)
敬比古
生・没1875年3/3

英夫(長州藩士の山田家へ養子入り)
生・1875年10/21(明治8年)
没・1945年5/26(昭和20年)

恒雄
生・1877年4/17(明治10年)
没・1949年11/14(昭和24年)
  
保男(12代目当主)
生・1878年12/6(明治11年)
没・1944年1/19(昭和19年)


(孫以降)一部のみ

勇雄(健雄の次男、福島県知事)
生・1907年6/14(明治40年)
没・2006年4/1(平成18年)

在任
1976年9/19(昭和51年)〜
1988年9/18(昭和63年)


一郎(恒雄の子)
節子(保男の養女となり、秩父宮へ嫁ぐ)

恒孝(一郎の次男。徳川宗家18代目)
平成天皇即位の際の武家代表。


保定(13代目当主。保男の子)
生・1926年8/19(大正15年)
没・2011年8/9(平成23年)
昭和天皇崩御の際、大葬祭官を務める。 


保久(14代目・現当主。保定の子)
生・1954年(昭和29年)


親保(15代目・予定。保久の子)