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ニュースというか、
ニュースアプリで、
三択×10問のクイズがあるんですが、
今日のテーマが【幕末】で、
これだけ幕末好きを公言してて、
ダメだったら、
明日からどうやって生きていけばよいのか…
くらいに思ってました。

全問正解出来てよかった…(泣)

※いつも以上に脈絡がありません。


時代で言えば、日清・日露前後の話です。


東京には、江戸時代から続く三大貧民窟、

いわゆるスラム街がありまして、

・下谷万年町(上野駅~鶯谷付近)

・四谷鮫ヶ橋(信濃町~四谷付近)

・芝新網町(浜松町駅付近)

がそれです。


ついでに、江戸時代の江戸四宿、

日本橋から一つ目の宿ですが、

・千住宿(日光街道、奥州街道)

・内藤新宿(甲州街道)

・品川宿(東海道)

・板橋宿(中山道)


このふたつは割と近いんですよね。

下谷と千住、四谷と内藤新宿、芝と品川、

板橋が少し外れてます。


これらはいわゆる町人街で、

岡場所、飯盛女のいる旅籠、

いわゆる風紀のよろしくない場所で、

千住には小塚原

四谷には監獄

品川には鈴ヶ森

などの刑場なんかもあったりして、

いわゆる汚れ仕事をする場所、

と言ってもいいでしょう。


板橋…は、よくわかりませんが、

高島秋帆が大砲の実験して、

徳丸が原→高島平になりました。

大砲をぶっ放すのも、あまり人がいないから、

かと思います。


気になったのが、

四谷鮫ヶ橋が赤坂御苑に隣接していた事、

なんですが、

他にも會津関係のものも多い。


容保公が初めに葬られた正受寺とか、

山川浩の家があったりします。

ちなみに、間借りしていた観蔵寺も下谷で、

貧民街だから家賃が安かったのか?


これを知ってから、

現在の地下鉄にある、

北千住(千住宿)ー南千住(小塚原)ー
三ノ輪(吉原)
このルートが怖くなりましたね(笑)

次の入谷にしても、
生活圏内と言ってもいい範囲に、
浅草、上野、下谷があるし、
自分が小さい頃には、
「あの辺にはなるべく行くな」
とか言われてましたし、
現在でもヤバそうなところはあります(笑)
というか、そう考えると、結構最近まで、
江戸時代の名残りがあったんですね…

関東大震災やら空襲、
ドラマの舞台になったりなどで、
今は観光地になったり、開発されたりですが、
そこからもれた土地もあるはずで、
夜歩き出来ないところも多いですしね。

本当に最後の私的な事ですが、
史跡とか霊が出るとか、
結構うろうろしてる自分としては、
生きてる人間のが怖いです。





小田山と言えば、
「八重の桜」でもありましたが、
鶴ヶ城南東1.5km、標高372m、
鶴ヶ城を一望出来る、あの山です。

五代目・容頌公を支えた、
名家老の田中玄宰の墓が山頂にあり、
途中からは柴五郎の恵倫寺にも行けます。

そして、登っててイラッとするのが、
「西軍砲台跡」
の看板で、大砲が発達していた幕末では、
鶴ヶ城攻略の最大の拠点となりました。

実際、會津戦争においても、
この山から、鶴ヶ城へ大砲が撃ち込まれ、
會津側も反撃したものの、
城内は多くの死者が出ました。


ところで、
「この山が要衝である」
と、官賊に密告したものがあるのを、
ご存知でしょうか。

一向宗・極楽寺(天寧寺町)の僧侶で、
一説に葦名氏の出自とも。
かねてより會津藩の宗教政策に不満を持ち、
これを好機とみたのでしょう。

この僧侶は、密告を知った會津藩士の、
武田宗三郎により殺害されますが、
謹慎の地である越後高田に護送される最中、
または、謹慎所から脱走してまで、
実行したそうです。
それだけ要衝だったんですね。

ちなみに武田は、僧侶を極楽寺で殺害後、
ことが発覚して政府軍に捕らえられ、
柳橋(涙橋)下流にある、
薬師堂河原処刑場にて処刑されました。

こうした復讐話は幾つかありますが、
中には官賊に脅されて嫌々案内したが、
誤解されて斬られた、
なんて話もあったようです。


さらに小田山について。
1868年10月10日(慶応4年8月25日)。
白虎隊の飯盛山での自刃から2日後。

小田山が要衝なのは、見晴らし以外、
會津藩の火薬(500貫=1800kg)が、
貯蔵されていたためです。
当然、これを敵に使われぬため、
奪回を試みるも失敗。

結局、決死隊による爆破が計画されますが、
小田山以外も含めて、その数は三回。
小田山の火薬庫爆破は成功し、
轟音によって落城と勘違いし、
自害するものまで出たのは有名です。

ところで、その功労者が二名、
まではわかっていますが、
誰、というのがわかっていません。
もっとも、爆死したか、
固く口止めされていたのでしょうか。

とおもっていたら、
「藁谷某」という人名があがりまして、
一人はこの人物らしい、と。

ところが、この藁谷にも候補が二、
勇吾、または、幸次郎
のどちらからしいのですが、

いくつかの記述によれば、

勇吾
・足軽の出
・手柄を立てて、戦争中に士分に
・性格に問題ありで、嫌われてた。
→士分になったら同身分だった足軽に威張る
→手柄を語りたがる

もしも、小田山爆破の人なら、
士分に取り立てられても不思議はないですが、
いわゆる正々堂々じゃないし、
功労者面すんなくらいに思わせてしまうほど、
豹変しちゃったんですかね?
佐川官兵衛の集団就職のための上京
にも付いてきたらしいです。
その最期はわかりません。

幸次郎
・藁谷幸之助の次男
・旧暦の8/27に小田村で死亡した、
・青龍士中一番隊(隊長・木本蔵之丞)の
40代の隊士

おそらくどちらかだそうですが、
どちらも違う可能性もあるとか…



余談。
柳橋は、
七日町駅から中野竹子の像に至る道にあり、
近くには罪人が水を飲んだ井戸の跡も。
その遥か先には、
斉藤一の不死身伝説を作った、
『如来堂』があります。

勿論、徒歩で楽勝ですよねねこさん(私信)