小田山と言えば、
「八重の桜」でもありましたが、
鶴ヶ城南東1.5km、標高372m、
鶴ヶ城を一望出来る、あの山です。
五代目・容頌公を支えた、
名家老の田中玄宰の墓が山頂にあり、
途中からは柴五郎の恵倫寺にも行けます。
そして、登っててイラッとするのが、
「西軍砲台跡」
の看板で、大砲が発達していた幕末では、
鶴ヶ城攻略の最大の拠点となりました。
実際、會津戦争においても、
この山から、鶴ヶ城へ大砲が撃ち込まれ、
會津側も反撃したものの、
城内は多くの死者が出ました。
ところで、
「この山が要衝である」
と、官賊に密告したものがあるのを、
ご存知でしょうか。
一向宗・極楽寺(天寧寺町)の僧侶で、
一説に葦名氏の出自とも。
かねてより會津藩の宗教政策に不満を持ち、
これを好機とみたのでしょう。
この僧侶は、密告を知った會津藩士の、
武田宗三郎により殺害されますが、
謹慎の地である越後高田に護送される最中、
または、謹慎所から脱走してまで、
実行したそうです。
それだけ要衝だったんですね。
ちなみに武田は、僧侶を極楽寺で殺害後、
ことが発覚して政府軍に捕らえられ、
柳橋(涙橋)下流にある、
薬師堂河原処刑場にて処刑されました。
こうした復讐話は幾つかありますが、
中には官賊に脅されて嫌々案内したが、
誤解されて斬られた、
なんて話もあったようです。
さらに小田山について。
1868年10月10日(慶応4年8月25日)。
白虎隊の飯盛山での自刃から2日後。
小田山が要衝なのは、見晴らし以外、
會津藩の火薬(500貫=1800kg)が、
貯蔵されていたためです。
当然、これを敵に使われぬため、
奪回を試みるも失敗。
結局、決死隊による爆破が計画されますが、
小田山以外も含めて、その数は三回。
小田山の火薬庫爆破は成功し、
轟音によって落城と勘違いし、
自害するものまで出たのは有名です。
ところで、その功労者が二名、
まではわかっていますが、
誰、というのがわかっていません。
もっとも、爆死したか、
固く口止めされていたのでしょうか。
とおもっていたら、
「藁谷某」という人名があがりまして、
一人はこの人物らしい、と。
ところが、この藁谷にも候補が二、
勇吾、または、幸次郎
のどちらからしいのですが、
いくつかの記述によれば、
勇吾
・足軽の出
・手柄を立てて、戦争中に士分に
・性格に問題ありで、嫌われてた。
→士分になったら同身分だった足軽に威張る
→手柄を語りたがる
もしも、小田山爆破の人なら、
士分に取り立てられても不思議はないですが、
いわゆる正々堂々じゃないし、
功労者面すんなくらいに思わせてしまうほど、
豹変しちゃったんですかね?
佐川官兵衛の集団就職のための上京
にも付いてきたらしいです。
その最期はわかりません。
幸次郎
・藁谷幸之助の次男
・旧暦の8/27に小田村で死亡した、
・青龍士中一番隊(隊長・木本蔵之丞)の
40代の隊士
おそらくどちらかだそうですが、
どちらも違う可能性もあるとか…
余談。
柳橋は、
七日町駅から中野竹子の像に至る道にあり、
近くには罪人が水を飲んだ井戸の跡も。
その遥か先には、
斉藤一の不死身伝説を作った、
『如来堂』があります。
勿論、徒歩で楽勝ですよねねこさん(私信)