「いるよなー、絶対いるはず」

と、思っていたら、やっぱりいた。

そんな會津藩士が、この、

武井亭(たけい かてい)です。

1823年2月16日(文政6年1月6日)生

1895年(明治28)年5月23日 (享年73歳)


諱は泰。通称、万太郎または満之助、完平。

字は通、号は五峰と亭ですが、

柯亭が有名らしいです。


まずは簡単な年表。

1853(嘉永6)年、房州沿岸警備

1857(安政4)年、江戸勤番
1862(文久2)年、會津に戻ったが、

容保公の京都守護職就任に従い上洛。


ここからなんですが、そこでしたのが、

他藩との外交。

長州の久坂玄瑞、桂小五郎、周布政之助、

こうした人たちとも親交が深く、

真偽不明ですが、久坂の頭を殴ったとか。

それで、親交あり過ぎたのか、

藩から内通の嫌疑がかけられてしまいます。


後に神保修理も、

長崎での他藩士との親交を疑われたりして、

切腹の原因になってますが、

柯亭の場合は、

疑われた事にムカついて隠居してます…


大庭恭平のように、

京都入り前に探索→過激派に感化、

とかはありましたが、味方を疑うくらい、

当時の京都はヤバかったんですね。


この内通を疑われるのが、

はじめの、いるはずポイント。


會津戦争が始まると再び起用され戦場へ。

この辺りは、

俺は外国行くぜ→故郷がヤバい→帰藩の

小出光照と似てるかも。


白虎隊が自刃した、旧8月23日。

鶴ヶ城南側の熊野口(または天神口)に、

進撃隊頭として出陣。

と書けば聞こえはいいが、

藩境から主力が戻らず、文官や学者などの

寄せ集め40名足らずしかいません。

ところが、

湯川を挟んで静松寺に陣取る西軍を撃退。

ここまではよかったんですが、

深追いして返り討ちという、

戦に不慣れなための悲劇が…

それでも湯川が赤く染まるくらい激戦した、

というのを加えておきます。


ちなみに、

この郭門跡に隣接する南口駐車場の北側、

豊岡墓地周辺には、

徳川家康や歴代藩主を祀る東照宮、

豊岡社、延寿寺などがありましたが、

新政府軍の拠点にならないよう

全て焼き払い、

この郭門を確保しだそうです。


開城後は、薩長の知己が、

再三出仕を勧めるも、

「亡国の臣が何の面目あって

戦勝者の禄を取れようか」

と、決して受けなかったそうです。


斗南には行ったのかは不明ですが、

多分行ってるでしょうね。


これですね。

まあ、出仕はせずとも、

広澤みたいな人物もいますが。


日新館の書学寮で師範を務める、

星研堂に書を学び、詩や琴が好きで、

柯亭というのも、正確には、柯亭琴士。

よほど琴好きなんでしようかね。

あと、書が、たまにオークション出てます。

伸びやかで荒くない字とか(え?)


1874(明治 7)年、

息子の庸が伊佐須美神社の宮司に就任。

それに伴って高田村に移住し、
そこで死去しました。
お墓も伊佐須美神社にあります。


21年ニート…

最後はこれ。

燃え尽き症候群というか、

反乱とか企てるよりはいいのか?



親戚の子が、
結構な成長(主に体重と態度)してました。
お前呼ばわり、舌打ち、物を投げる、
して、パパさんに怒られてました。
いい子なんだけどね。
そして、
KBL(子供、ビンタ、ライセンス)
をまた貰いました。5軒目。
一度もした事はありません。

ダイエットによって、
サイズが合わなくなり服を捨て、
なるべくそういうのに影響されない服…
と探してて、結局、ダイエット前と同じ、
チノパンとシャツとトレーナーに
戻ってしまいました。
ズボンの色変えればよかったかな…
でも短足をカバーしたいから黒。
そして、
やはりパーカーはいらなかった。
でも、ライトアウター欲しい。

某ラーメン屋で大盛り頼んだら、
「あんた、喰えるの?」
とかちょっと偉そうでした。
結局、食えましたが、
謝られると、ちょっと恥ずかしい。
ていうか、大盛りのくせに、
量少ねーよ!!
そっちをどうにかしろ。



令和になった瞬間何してた?

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新天皇の即位に謹んでお慶び申し上げます。

大安から始まるのがいいよね。
そう言えば、
平成最後の買い物は444円で、
令和最初の買い物は4000円で、
合わせて4444だった。
ちなみに元号が変わる瞬間は
トイレにいた。
特に意味は無い。