本日10月8日は、旧暦換算すると、慶応4年8月23日。白虎隊の日です。

年齢を偽り、隊士となったものもいますが、適年齢でありながら、入隊が適わなかった藩士の一人が、丹羽五郎です。

五郎は、1852年5月2日(嘉永5年3月14日)生だから、篠田儀三郎らと同い年になります。

戦国時代に詳しい人ならピンと来るかと思いますが、信長配下の、丹羽長秀の末裔になります。

直系は二本松の殿様の家系で、仮に會津丹羽家としますが、その本家は、小田山に墓がある、丹羽能教の家系になります。

五郎の実家は、そこから分かれた家ですが、本家の跡継ぎがないために、養子に入り、当主となったことで、白虎隊には入れませんでした。

會津丹羽一族もまた、會津の悲劇に見舞われいる一族です。

実父・族(やから)は、長岡で、食糧調達不備の責任を取り自害。
(※ここから族の目線)
養子・九八郎が討死。
和田家に嫁いだ娘は、孫娘とともに自刃。
従兄・永瀬雄助は鳥羽・伏見の戦いで林権助の大砲隊に属し討死。
その弟・永瀬勇次、
従弟・有賀織之助は、飯盛山で自刃。
叔父・入江庄兵衛は進撃隊組頭として討死。
叔父・高木竹之助は家族5人と共に自刃。
実に40人以上が、亡くなっています。

さて、會津戦争での五郎です。

8月21日。母成峠が落ちましたが、翌22日の夜、若松から150km離れた日光口まで、一昼夜走って報せたのが五郎でした。

山川隊は、それを受け、籠城3日目の26日の彼岸獅子入城をしますが、その帰還ルートは、標高150mから最高900mの登り下りの坂続きの峠+ここ数日の台風で泥水だらけの山道です。

五郎は、21日~26日までに、これを往復したことになります。

五郎は、田村と姓を変えて、羅卒となり、西南戦争へも従軍します。

警視庁抜刀隊の小隊長→陸軍少尉になり、新撰旅団本営の参謀部附となりましたが、参謀長が千坂高雅(旧米沢)で、参謀副長が立見尚文(旧桑名)だそうで、相手に同情しますわ…

その後、今はなき、神田和泉橋警察署長として資金を貯め、北海道へ渡り瀬棚を開拓。現在のせたな町の礎を築きました。

せたな町の玉川公園には丹羽五郎が建てた白虎隊遥拝所があります。

そして1941年(昭和16年)には、丹羽村建村50年祭が営まれ、会津松平家当主松平保男(容保公7男で會津松平家12代目)の額題による頌徳碑が建立されました。