明治初期は、佐賀の乱、神風連の乱、萩の乱、思案橋事件、西南戦争(1877年(明治10)と、士族の反乱が相次ぐ時期でもありました。

これらの乱で、親友で義弟の小出光照や、共に斗南の舵取りをした永岡久茂の訃報を次々に受けたりと、浩が悲しみに暮れた時期でもあります。

一方、多くの旧會津人同様に、會津戦争の復讐と位置付けた西南戦争で、陸軍中佐、征討軍団参謀として出征し浩は、またも武名を轟かせます。

恩人である、谷干城がこもる熊本城を、薩摩軍の攻囲を突破し、かつての彼岸獅子入城に続き、味方の救援の入城を果たしたのがそれです。

しかし、またもやこの戦で、かつては共に家老に昇進した、佐川官兵衛が戦死しています。

さらに浩は、『維新に内在する無理、摩擦、未熟、矛盾に起因する(柴五郎)』竹橋事件の処刑執行を命じられます。

1880年(明治13)には陸軍大佐に進級し、1885年(明治18)には、『教育改革』を唱える初代文部大臣・森有礼に見出され、軍籍のまま、東京高等師範学校と附属学校(現・筑波大学と附属小・中・高校)
女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の校長に任じられました。

この人選は、旧斗南領を視察した森が、日新館の名残ある教育風景や、旧會津人たちの規律ある性質を見込んでのものだといいます。

浩はこの期待によく応えたようで、規律が厳しい軍人であることもあり、乱れかけていた学校の秩序は、整然としたものになりましたが、弟妹を見るまでもなく、山川家は教育方面に、その本質があるようです。

その後、陸軍少将、陸軍省総務局制規課長を最後に、腕の負傷もあり、予備役に編入されます。

1890年(明治23)には、貴族院議員に勅選(!)され、谷や曾我祐準とともに院内会派・懇話会を旗揚げして、
『貴族院三将軍』の異名をとります。

同年に行われた、日本初の衆議院議員選挙には、旧會津藩領の福島4区から立候補しましたが、当選2名の定員のところ、3位で落選しました。

そうした活動よりも、やはり軍人としての活躍が性に合ったようで、結核に冒されながら、日清戦争参戦を懇願しますが、万一の場合、名前が有りすぎるのでと、断られたりしています。

1898年(明治31)1月26日、軍務等の功により男爵に叙せられましたが、同年2月4日、病のため没しました。

京都守護職始末については、別記事でm(_ _)m