『死ぬべき時に死ねないやつらに何が出来る?
粥でも食わせとけ!』
(山川大蔵・談)

荘田とて、徹底した武家教育を受けた會津藩士ですが、まだまだ10代の甘えたい若者。少しは優しい言葉を期待したかも知れません。

しかしこの言葉こそが、本当に優しい言葉ということを、荘田らは後々になって知り、感謝と共に述懐します。

安堵感によって緊張の糸が切れると、それまで感じなかった疲労や傷の痛みのために、最悪死に至ることも、戦場では珍しくありません。

こうした屈辱に違い言葉を浴びせたのも、荘田ららを気付けすることで、死なせないための処置だったのです。(多分)

おそらく鳥羽伏見からの撤退中、最悪の事態に陥ったものたちを、何度も目の当たりにしてしまったのでしょう。

それにしても、山川兄のチョイスした言葉が(許可申請中)だと思ってしまいました。

その後の荘田についてはわかりませんが、明治も25年になった頃、こんな逸話があるそうです。

白虎隊の僚友である原銀三郎らと、東山温泉へと出かけた時のこと。

宿『新瀧』に入り、今日一日の疲れでもほぐそうかと、按摩が一人呼ばれました。

この按摩は、色々と問題のある按摩でしたが、この時も、一向に仕事にかかろうとせず、盛んに首を捻っています。

荘田らも不思議に思って首を捻っていると、やがて按摩が自分たちの名を呼ぶではありませんか。

聞けばこの按摩、元會津藩士・樋口得之進で、鶴ヶ城が開城した後、妙国寺に謹慎する容保公の侍臣を務めた、いわば、荘田らの僚友でした。

山川兄の話が出たのも、おそらくはその夜のことだったでしょうか。

その後、わかりました。
漆器職人になり、腕が良かったようで、各地で漆器の技を伝え、そして故郷の會津に、工業高校の教師となって帰国。

教え子たちを戸ノ口原や飯盛山に引率し、會津武士の少年らの話を語り継いだそうです。(泣)