1868~9年
(軽き任務を受け)會津から落ち延び、榎本艦隊と合流する。
箱館戦線で江差まで戦うが、箱館で捕らえられ、館林藩預け置きとなる。
1870年
本姓の保科に改姓。
1872年
伊豆松川にて、謹申学舎塾(岩科学校)の塾長となる。
1875年
現・福島県東白川郡棚倉町の都々古別(つつこわけ)神社の宮司となる。
1877年
西南戦争。西郷隆盛との書簡によるやり取りを疑われ、逮捕される。
1879年
長男吉十郎病没。
志田(後、西郷)四郎を養子とする。
1880年
日光東照宮の禰宜に。
同年、旧會津藩主・容保公は宮司になる。
(おそらく、戦後、初めての再会。)
1887年
東照宮の禰宜を辞し、大同団結運動に加わる。
會津と東京を拠点として政治活動に加わる。
代議士となる準備を進めていたが、運動が瓦解したため、政治運動から身を引いた。
(おそらく、戦後、初めて會津へ帰った?)
(軽き任務を受け)會津から落ち延び、榎本艦隊と合流する。
箱館戦線で江差まで戦うが、箱館で捕らえられ、館林藩預け置きとなる。
1870年
本姓の保科に改姓。
1872年
伊豆松川にて、謹申学舎塾(岩科学校)の塾長となる。
1875年
現・福島県東白川郡棚倉町の都々古別(つつこわけ)神社の宮司となる。
1877年
西南戦争。西郷隆盛との書簡によるやり取りを疑われ、逮捕される。
1879年
長男吉十郎病没。
志田(後、西郷)四郎を養子とする。
1880年
日光東照宮の禰宜に。
同年、旧會津藩主・容保公は宮司になる。
(おそらく、戦後、初めての再会。)
1887年
東照宮の禰宜を辞し、大同団結運動に加わる。
會津と東京を拠点として政治活動に加わる。
代議士となる準備を進めていたが、運動が瓦解したため、政治運動から身を引いた。
(おそらく、戦後、初めて會津へ帰った?)