松平英夫公は、容保公の五男ですが、三男四男としてし産まれた双子が夭折されたので、三男との記録もあります。また、旧・長州藩の山田家の

養子となったので、「山田英夫」との記述も。



會津松平家は、資料が少ないといいましたが、長州閥に入ってしまったせいか、英夫氏には結構資料がありました。

英夫公は五男ということもあって、早くから独立志向があったようで、軍人を志したのも、そのためでしょうか。

斗南から上京して来たばかりの頃から、山川家のお世話になったり、秋月先生に師事し、長じて軍人の道を進みます。

そんな環境のせいか、厳しく育ったであろう英夫公を気に入って、山田家への養子縁組みを勧めた一人が乃木希典。

乃木自身、會津には敬意を抱いていたり、日露戦争では、英夫氏が副官も務めた縁もありました。

旅順陥落後、水師営というところで、乃木希典とステッセルが会見した際も同行し、有名な集合写真にも写ってます。

後に御子息たちから、
『親父は頭が固い。』
と言われますが、會津&乃木と、そうなる環境が揃いすぎているので…

とは言え、甥の勇雄氏(兄・健雄の子で、元福島県知事)には、
『乃木さんに言われて人質になった…』

同じく甥の保定氏(弟・保男氏の子で、會津松平13代目当主)には、
『あっち(長州)でも、こっち(會津)でも妙な目で見られる…』

と、愚痴をこぼしておられたそうです…
そういう時代が、ついこの間なんですね…