伊東悌次郎と言えば、東隣に住んでいた山本八重子に鉄砲を習い、臆病者と怒られたり、前髪パッツンされた子です。
1854年生だから、戊辰時に14歳。数え年でも15歳なので、飯沼貞吉のように年齢を偽って出陣しました。
とはいえ、この件については、父と隊長・日向内記の相談の上であり、体格に恵まれ、馬術をはじめ武術に優れ、特に砲術に関しては、八重子の指導もあってか、誰よりも達者と伝わります。
その父・左太夫は、1826年生で、祐順、寛堂と号し、幼い時より温厚であり学才にも秀でていましたが、昌平黌遊学の藩命を辞退しました。
藩校日新館で学ぶとともに、儒者の宗川茂にも師事し、1854年、水戸に広沢安任と共に遊学、藤田東湖らと語ったといいます。ていうか、悌次郎の生年なんですが…
そんな負い目があったのか、悌次郎が出陣時に、佩刀に不安を感じて、
『武士が主君を衛るには名刀がなければなりませぬ。願わくば良冶の作れる佩刀を賜え。』
というおねだりに、財を傾け、備前兼光の刀を購って与えたそうです。
高くついたな…
話が前後しますが、左太夫は、守護職を拝命した容保公に従って上洛し、公用人に任命され、翌1863年冬に、一旦帰国します。
その時、師の宗川茂が既に死んでいたため、同門の高弟、安部井政治、永岡久茂、浮洲七郎、米沢昌平、高木友之進に、教えていたそうですが、すごいメンバーだ…
會津戦争では、家老梶原平馬らと共に、米沢藩や七ヶ宿に赴いて米澤藩や仙台藩等と謝罪降伏の相談や、庄内に行きます。
悌次郎は、白虎隊士として出陣し、途中、負傷した仲間を助けながら飯盛山に辿り着きますが、すでに仲間は自決した後でした。
悌次郎は、ひとつ歳上の親友、井深茂太郎の隣で自決しますが、そのために、後に井深の遺族が遺体を捜索した際、ともに発見されたといいます。
左太夫は、子と父を失った悲しみの中、終戦後に大沢村に閉居し、子弟を教育していましたが、明治2年秋に、喜徳の侍講(教師)として東京に召し出されます。
そして、約2年後の明治4年4月15日、心臓病のため急逝しました。
1854年生だから、戊辰時に14歳。数え年でも15歳なので、飯沼貞吉のように年齢を偽って出陣しました。
とはいえ、この件については、父と隊長・日向内記の相談の上であり、体格に恵まれ、馬術をはじめ武術に優れ、特に砲術に関しては、八重子の指導もあってか、誰よりも達者と伝わります。
その父・左太夫は、1826年生で、祐順、寛堂と号し、幼い時より温厚であり学才にも秀でていましたが、昌平黌遊学の藩命を辞退しました。
藩校日新館で学ぶとともに、儒者の宗川茂にも師事し、1854年、水戸に広沢安任と共に遊学、藤田東湖らと語ったといいます。ていうか、悌次郎の生年なんですが…
そんな負い目があったのか、悌次郎が出陣時に、佩刀に不安を感じて、
『武士が主君を衛るには名刀がなければなりませぬ。願わくば良冶の作れる佩刀を賜え。』
というおねだりに、財を傾け、備前兼光の刀を購って与えたそうです。
高くついたな…
話が前後しますが、左太夫は、守護職を拝命した容保公に従って上洛し、公用人に任命され、翌1863年冬に、一旦帰国します。
その時、師の宗川茂が既に死んでいたため、同門の高弟、安部井政治、永岡久茂、浮洲七郎、米沢昌平、高木友之進に、教えていたそうですが、すごいメンバーだ…
會津戦争では、家老梶原平馬らと共に、米沢藩や七ヶ宿に赴いて米澤藩や仙台藩等と謝罪降伏の相談や、庄内に行きます。
悌次郎は、白虎隊士として出陣し、途中、負傷した仲間を助けながら飯盛山に辿り着きますが、すでに仲間は自決した後でした。
悌次郎は、ひとつ歳上の親友、井深茂太郎の隣で自決しますが、そのために、後に井深の遺族が遺体を捜索した際、ともに発見されたといいます。
左太夫は、子と父を失った悲しみの中、終戦後に大沢村に閉居し、子弟を教育していましたが、明治2年秋に、喜徳の侍講(教師)として東京に召し出されます。
そして、約2年後の明治4年4月15日、心臓病のため急逝しました。