垣根の 『シロバナトキワマンサク』の花

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丸山薫の『白い自由画』について
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「長く厳しい冬を過ごした北国の人々の春を待つ様子と心」が、とても素晴らしく描かれた詩に丸山薫(1899年〜1974年)の『白い自由画』がある。この詩は、丸山薫の『北の春』と並ぶ「春を待つ北国の人々の様子と心が上手く描かれた作品」だ。※山形に疎開(そかい)していた丸山薫は自分の一番好きな風景、自分が目にした景色、大切にしてる記憶を残しておこうとして、この二つの詩を「心の風景」として書いたのだろう。
毎年、『トキワマンサク』の花が咲くたびに、遠い雪国の空と、必ず訪れる光の春を待ち望む北国の人々の様子が想像されるとともに、丸山薫の『白い自由画』の詩の一節が、鮮やかに思い出される。
【※山形に疎開していた丸山薫:※日塔貞子(にっとうさだこ:1920年〜1949年)の夫である日塔聰(にっとうそう:1919年〜1982年)から岩根沢(いわねざわ)に疎開を誘われた丸山薫は、昭和20年(1945年)から戦争が終わって世の中がある程度落ち着いた昭和24年(1949年)まで山形県の月山(がっさん)の山懐(やまふところ=山に囲まれた所)に位置する西川町岩根沢に疎開し、その集落で代用教員を務めた。
{※日塔貞子:戦争中に詩的開花を遂げた夭折の詩人。1949年に28歳の若さで死去。詩人・丸山薫は日塔貞子の印象を「冷たい珠(たま)のような容姿。その内部に犯しがたい気品と、はげしい気魄(きこん)が燃えていた」と書いている。}】

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春を味わう詩(丸山薫)『白い自由画』

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    白い自由画
 
「春」という題で
私は子供たちに自由画を描かせる
子供たちはてんでに絵の具を溶(と)くが
塗(ぬ)る色がなくて 途方に暮れる

ただ まっ白い山の幾重(いくかさ)なりと
ただ まっ白い野の起伏(おきふし)と
うっすらとした
墨色(すみいろ)の
薄墨(うすずみ)
の陰影(いんえい)の所々に
突き刺(さ)したような疎林(そりん)の枝先だけだ

私はその一枚の空を
淡いコバルト色に彩(いろど)ってやる
そして 誤って まだ濡(ぬ)れている枝間(えだま)に
ぽとり! と黄色のひと雫(しずく)を滲(にじ)ませる

私はすぐに後悔するが
子供たちは却(かえ)ってよろこぶのだ
「ああ まんさくの花が咲いた」と
子供たちはよろこぶのだ

(詩集「北国」より [丸山薫])

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丸山薫『白い自由画』の解説

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この詩は、作者が疎開先の山形の岩根沢で代用教員をしていた頃に作らた。雪深い北国の土地で、子供たちの春を待つ姿を通して描かれ、その子供たちの純朴なこころが沁(し)みてくるような詩だ。

雪国のある学校の教室の窓の外には、墨絵のような雪景色が広がっていて、子どもたちは「春」がテーマの自由画をどう描いたらよいのかわからず途方にくれている。 

そこで先生は、せめて空に色をさしてあげようとして、誤って、黄色い絵の具「黄色のひと雫」を濡れている画用紙にぽとりと落としてしまい、「失敗した」と後悔するが、子どもたちは、「ああ ※まんさくの花が咲いた」とよろこぶ、という場面だ。不用意な先生の失敗にもかかわらず子どもたちは目を輝かす。ちょっと内気な先生と元気な子どもたちとの心の通い合い、そんな先生と教え子たちとの間の親愛の情が感じられる。「まんさくの花」は、冬でも色彩が残る暖地ではけっして特別な花ではないが、雪に閉じ込めらえたモノトーンの世界に暮らす北国の人々にとって、黄色の「まんさくの花」は格別で、春を心待ちにする心の「琴線(きんせん)に触れる(良いものや、素晴らしいものに触れて感銘を受けること)」花でもあるのだ。  

【※まんさくの花:早春の頃、長いひものような花弁をつけた黄色の花が山を彩[いろど]り始め、長い冬に耐[た]え、春の訪れが近いことを知らせてくれる花で、時には花枝に淡雪が積もった風景を見ることもできるとも言われる。】

終戦前後の物資にきわめて乏(とぼ)しいとき、「仙境(せんきょう=俗界を離れた静かで清浄な土地)」といわれたこの地はどんなに侘(わび)しい所だったことか。しかし、子供たちが絵の具を塗る色がないというのは、貧しくて絵の具がなかったからではなく(そう指摘する人もいるが)、むしろ辺り一面真っ白の雪景色だったからではないだろうか。それはそのままタイトルの「白い」という言葉を直接受けているとともに、詩中の「まっ白い」という表現とも呼応しているように思われる。つまり、真っ白い雪の白以外、描く対象がなかったところに、偶然、黄色いの一雫が滲む。その様子を見て、春の訪れを心待ちにしていた子供たちは「春の印」である「まんさくの黄色い花」と捉(とら)え、『まんさくの花が咲いた』と言って、喜んでいるのだ。この子供たちの黄色い笑い声での喜びと言ったらない。純真な天使たちの笑顔が思い浮かぶ。 

春の訪れを告げるために、真っ白な雪の中で「まず咲く」、「まんさくの花」、幸福の黄色の花。この「まんさくの黄色い花の開花」は、当たり一面が真っ白の銀世界にあって、何より早い春のあどけない挨拶と言えるのではないだろうか。この「まんさくの黄色い花の開花」は、長く厳しい冬を過ごした北国の人々にとって待ちに待ったものだ。季節ばかりではなく、様々な春の到来を人は願うものだが、この『白い自由画』を読むたびに彼(か)の地から遠く子供たちの笑い声が聞こえてくるようだ。この詩を読むと、「まんさくの黄色」が脳裏に鮮やかに蘇(よみがえ)ってくるのはもちろんだが、それ以上に雪原や疎林の奥を元気いっぱい飛び回っている子供たちの姿が脳裏に浮かぶ。

「まんさくの花」が登場する詩は『白い自由画』のほかにもあるが、いずれもこの豪雪に閉じ込められる集落の代用教員時代に子供たちと接するうちに生まれた詩である。

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丸山薫が代用教員をした「岩根沢小学校のその後」と「丸山薫記念館」と詩集『北國(北国)』・『仙境』

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丸山薫が代用教員をした岩根沢小学校(山形県)の校舎は、まだ壊されずに残っているが、既(すで)に廃校になってしまっている。校庭には彼の詩碑があり毎年詩碑保存会の総会が行われ、県内外から彼を慕う人々が集っている。また岩根沢には小さな「丸山薫記念館」があり、地元の人々の手で守られ、子供たちの詩の顕彰「丸山薫 青い黒板賞」がある。戦後80年、経とうとしている今でもなお、この記念館を中心に小中生を対象にした詩のコンクールが毎年続けられていて、記念館に入選作品の詩が掲示されている。その入選作品の詩の感性はすばらしいものだ。丸山薫がまいた一粒の種(たね)が立派に根付いているのだ。

なお、丸山薫は、この山の村で書いた詩集『北國』(昭和21年9月20日)、『仙境』(昭和23年3月31日)を発表した。
「冬は雪ふかく 夏はみどり濃き 月山の麓の村より この詩集を世におくる」   
(―詩集『北國』より― 一九四六年九月二十日)
「『仙境』とは、私の住む現實(現実)―正確に言へ(え)ば山形縣(県)西村山郡西山村岩根澤(岩根沢)の、月山に続く山腹と谿間(谷間)にちらばる一蔕(一帯で)の山人の世界―そこから立ち昇(のぼ)る雲烟(うんえん=雲とかすみ)である。私のからだはこゝに住み、こゝろはけむりの中に住んでゐた(いた)。 

           ☆  

 私が山の中で詩を書いてゐる(いる)のを評して、都會(都会)の或(あ)る若い詩人が「彼はもう分教場の窓から淡雪(あわゆき)でも眺めてゐる(いる)方がいいだらう(だろう)」と言った。はて、淡雪といふ(いう)ものはいったい何處(何処)の國(くに)で降つたらう(ろう)? ここは元來(元来)、糊(のり)でつぎ貼(は)りしたやう(よう)なら人間にはくらせない荒々しい自然の中である。雪は三メートルも積り、しかも人が決してその中を歩けないやう(よう)にしか吹雪(ふぶ)かないのだ。」
(一九四七年六月八日 山の村で著者しるす)
(―詩集『仙境』より―)                 
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『白い自由画』以外の詩で「まんさくの花」が登場するもう一遍(いっぺん)の詩『まんさくの花』を御紹介する。

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   まんさくの花


まんさくの花が咲いた と
子供達が手折(たお)って 持ってくる
まんさくの花は淡黄色(たんこうしょく)の粒々(つぶつぶ)した
眼(め)にも見分けがたい花だけれど

まんさくの花が咲いた と
子供達が手折って 持ってくる
まんさくの花は点々と滴(したた)りに似た
花としもない花だけれど

山の風が鳴る疎林(そりん)の奥から
寒々とした日暮れの雪をふんで
まんさくの花が咲いた と
子供達が手折って 持ってくる

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春の訪れを発見し、みんなに告げる子供たちの喜んでいる姿が目に浮かぶ、とても素敵な詩ではないだろうか。