まずは『トキワマンサク』の写真17葉をご覧あれ😊 

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『ベニバナトキワマンサク(紅花常磐万作)』と『シロバナトキワマンサク(白花常磐万作)』がドッキング!!

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『ベニバナトキワマンサク』と『シロバナトキワマンサク』が交互に植えられた垣根の『トキワマンサク』の木々と花々の紅色と緑色と黄色が入り混じって、晩春のひととき明るく輝いて見える。(2024年4月29日)(大船)

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公園に植えられた『ベニバナトキワマンサク』の木々は全長10メートルあまり。公園の草地を囲むように植え込まれている。(2024年5月1日)(寺田)

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綺麗(きれい)に剪定(せんてい)された『ベニバナトキワマンサク』の垣根(2024年4月28日)(小比企)

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綺麗に剪定された『ベニバナトキワマンサク』の垣根

上の『ベニバナトキワマンサク』の拡大写真

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『ベニバナトキワマンサク』の写真7葉(2024年4月21日)

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『ベニバナトキワマンサク』の花(七国)

上の『ベニバナトキワマンサク』の花の拡大写真

ジェラート屋さんの脇に4本並んだ『ベニバナトキワマンサク』の木と花(相原

上の写真の『ベニバナトキワマンサク』の花の拡大写真

上の写真の『ベニバナトキワマンサク』の房状に咲く花
剪定された1本の木に咲く『ベニバナトキワマンサク』の花(七国)

上の写真の『ベニバナトキワマンサク』の花の拡大写真

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垣根の『ベニバナトキワマンサク』の花2葉(2024年4月19日)(七国)

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垣根の『ベニバナトキワマンサク』の花

上の『ベニバナトキワマンサク』の花の拡大写真

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『シロバナトキワマンサク』の花の写真4葉(2024年4月21日)

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 垣根の『シロバナトキワマンサク』の花々(七国)

上の写真の 『シロバナトキワマンサク』の拡大写真
垣根の『シロバナトキワマンサク』の花々(大船)

上の写真の『シロバナトキワマンサク』の拡大写真

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『※トキワマンサク(常盤万作)』は、「マンサク科トキワマンサク属」に1種のみ知られている「常緑樹」です。主な開花期は春、4月から5月にかけて、緑色を帯びた淡いクリーム色の花を1カ所に数輪がまとめて付きます。秋に少しだけ花を咲かせることもあります。『トキワマンサク』という名前は「常緑のマンサク」という意味です。

【※『トキワマンサク』は海外から偶然、持ち込まれて発見され、後に国内での分布も確認されたというおもしろい経歴があります。日本で発見されたのは、中国から輸入されたランの鉢についていた苗でした。それが開花して、1905年に『トキワマンサク』の名前が付けられました。当時は中国特産の樹木とされていましたが、1931年に伊勢神宮で発見され、のちに日本の限られた地域やインドでの分布も確認されました。】

『トキワマンサク』は、「落葉樹」の『マンサク』とは花びらが細いところなどは似ているといえば似ていますが、『マンサク』とは異なり、「葉はやや小さめ」で「常緑」になる。『マンサク』とは「属が異なる別の樹木」です。『マンサク』は「10m近くに生長する高木で、花は黄色で『落葉樹』」という風に違う点は多いです。『トキワマンサク』は、「しなやかな枝に卵形の小さな葉が優しく揺(ゆ)れる姿」が人気です。花は「細いヒモ状でリボンのような4枚の花弁があり、春の開花期には枝先に集まるように咲く」ため、株全体が花に覆(おお)われ、遠くからでもその美しさが楽しめます。葉は長楕円形で、葉色は緑葉のほかに赤褐色(赤紫)もあります。緑の葉に黄色みを帯びた白い花が輝くように映えます。園芸品種には葉に赤みを帯びるものや花の色が赤いものもあります。樹形は分枝(ぶんし)が多く、剪定(せんてい)すればよくまとまります。なお『トキワマンサク』の特徴である白花の『シロバナトキワマンサク』しか使われなかった頃は認知度が低かったが、紅紫色の花を咲かせる『ベニバナトキワマンサク』が使われるようになってから、その美しい花と丈夫(じょうぶ)な性質、刈り込みの容易さなどから人気の樹木になりました。葉の形が左右非対称で不整なことから、カタソゲ(片削げ)という俗名(ぞくみょう)があります。花言葉は「神秘・魔力」です。

ちなみに、和名の『※マンサク』の語源は明らかではありませんが、早春、まだ雪が残る山に春がやって来て、他の木々に先駆けて「まず咲く」(最初に咲く)ことから、「まず咲く」「真っ先」が転訛した説、また黄金色の花が多数咲くと豊作になるといわれることから「万年豊作」に由来するなどの説、あるいは花がたくさん咲くから「満咲き」からだとする説があります。
【※マンサク:雪深い山国に待望の春がやって来て、雪景色の中で他の花に先駆けて「まんさくの花」が咲くのを見て、「まんず咲く」と言ったのが、「まず咲く」を経て「まんさく」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。この「まんさく」という言葉は、春の訪れを心待ちにする人々の喜びを表しているようで、素晴らしい。】
次に「トキワ(常磐)」とは、「不変」を意味する言葉です。「とこいわ(常・磐)」という言葉が転じたもので、「常に変わらない岩」を指していましたが、現代では「常に変わらないもの」という意味となっています。一年中葉をつけることからも、『常磐』を冠した『トキワマンサク』という名前になったようです。また、花のヒラヒラが「神社のしめ縄などに付けられるシデ(白い紙のヒラヒラ)に似ていること」から、豊作を祈念する「豊年万作」をイメージしたとも考えられています。花の色は、赤やピンクが一般的ですが、他にも黄色や白の『トキワマンサク』が開発されています。とりわけ赤やピンクの花は『ベニバナトキワマンサク(紅花常盤満作)』と呼ばれ、「白や黄色の花」は『シロバナトキワマンサク(白花常磐万作)』と呼ばれています。 

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丸山薫の『白い自由画』について

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「長く厳しい冬を過ごした北国の人々の春を待つ様子と心」が、とても素晴らしく描かれた詩に丸山薫(1899年〜1974年)の『白い自由画』がある。この詩は、丸山薫の『北の春』と並ぶ「春を待つ北国の人々の様子と心が上手く描かれた作品」だ。※山形に疎開(そかい)していた丸山薫は自分の一番好きな風景、自分が目にした景色、大切にしてる記憶を残しておこうとして、この二つの詩を「心の風景」として書いたのだろう。
毎年、『トキワマンサク』の花が咲くたびに、遠い雪国の空と、必ず訪れる光の春を待ち望む北国の人々の様子が想像されるとともに、丸山薫の『白い自由画』の詩の一節が、鮮やかに思い出される。
【※山形に疎開していた丸山薫:※日塔貞子(にっとうさだこ:1920年〜1949年)の夫である日塔聰(にっとうそう:1919年〜1982年)から岩根沢(いわねざわ)に疎開を誘われた丸山薫は、昭和20年(1945年)から戦争が終わって世の中がある程度落ち着いた昭和24年(1949年)まで山形県の月山(がっさん)の山懐(やまふところ=山に囲まれた所)に位置する西川町岩根沢に疎開し、その集落で代用教員を務めた。
{※日塔貞子:戦争中に詩的開花を遂げた夭折の詩人。1949年に28歳の若さで死去。詩人・丸山薫は日塔貞子の印象を「冷たい珠のような容姿。その内部に犯しがたい気品と、はげしい気魄(きこん)が燃えていた」と書いている。}】

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春を味わう詩(丸山薫)『白い自由画』

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    白い自由画
 
「春」という題で
私は子供たちに自由画を描かせる
子供たちはてんでに絵の具を溶(と)くが
塗(ぬ)る色がなくて 途方に暮れる

ただ まっ白い山の幾重(いくかさ)なりと
ただ まっ白い野の起伏(おきふし)と
うっすらとした
墨色(すみいろ)の
薄墨(うすずみ)
の陰影(いんえい)の所々に
突き刺(さ)したような疎林(そりん)の枝先だけだ

私はその一枚の空を
淡いコバルト色に彩(いろど)ってやる
そして 誤って まだ濡(ぬ)れている枝間(えだま)に
ぽとり! と黄色のひと雫(しずく)を滲(にじ)ませる

私はすぐに後悔するが
子供たちは却(かえ)ってよろこぶのだ
「ああ まんさくの花が咲いた」と
子供たちはよろこぶのだ

(詩集「北国」より [丸山薫])

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丸山薫『白い自由画』の解説

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この詩は、作者が疎開先の山形の岩根沢で代用教員をしていた頃に作らた。雪深い北国の土地で、子供たちの春を待つ姿を通して描かれ、その子供たちの純朴なこころが沁(し)みてくるような詩だ。

雪国のある学校の教室の窓の外には、墨絵のような雪景色が広がっていて、子どもたちは「春」がテーマの自由画をどう描いたらよいのかわからず途方にくれている。 

そこで先生は、せめて空に色をさしてあげようとして、誤って、黄色い絵の具「黄色のひと雫」を濡れている画用紙にぽとりと落としてしまい、「失敗した」と後悔するが、子どもたちは、「ああ ※まんさくの花が咲いた」とよろこぶ、という場面だ。不用意な先生の失敗にもかかわらず子どもたちは目を輝かす。ちょっと内気な先生と元気な子どもたちとの心の通い合い、そんな先生と教え子たちとの間の親愛の情が感じられる。「まんさくの花」は、冬でも色彩が残る暖地ではけっして特別な花ではないが、雪に閉じ込めらえたモノトーンの世界に暮らす北国の人々にとって、黄色の「まんさくの花」は格別で、春を心待ちにする心の「琴線(きんせん)に触れる(良いものや、素晴らしいものに触れて感銘を受けること)」花でもあるのだ。  

【※まんさくの花:早春の頃、長いひものような花弁をつけた黄色の花が山を彩[いろど]り始め、長い冬に耐[た]え、春の訪れが近いことを知らせてくれる花で、時には花枝に淡雪が積もった風景を見ることもできるとも言われる。】

終戦前後の物資にきわめて乏(とぼ)しいとき、「仙境(せんきょう=俗界を離れた静かで清浄な土地)」といわれたこの地はどんなに侘(わび)しい所だったことか。しかし、子供たちが絵の具を塗る色がないというのは、貧しくて絵の具がなかったからではなく(そう指摘する人もいるが)、むしろ辺り一面真っ白の雪景色だったからではないだろうか。それはそのままタイトルの「白い」という言葉を直接受けているとともに、詩中の「まっ白い」という表現とも呼応しているように思われる。つまり、真っ白い雪の白以外、描く対象がなかったところに、偶然、黄色いの一雫が滲む。その様子を見て、春の訪れを心待ちにしていた子供たちは「春の印」である「まんさくの黄色い花」と捉(とら)え、『まんさくの花が咲いた』と言って、喜んでいるのだ。この子供たちの黄色い笑い声での喜びと言ったらない。純真な天使たちの笑顔が思い浮かぶ。 

春の訪れを告げるために、真っ白な雪の中で「まず咲く」、「まんさくの花」、幸福の黄色の花。この「まんさくの黄色い花の開花」は、当たり一面が真っ白の銀世界にあって、何より早い春のあどけない挨拶と言えるのではないだろうか。この「まんさくの黄色い花の開花」は、長く厳しい冬を過ごした北国の人々にとって待ちに待ったものだ。季節ばかりではなく、様々な春の到来を人は願うものだが、この『白い自由画』を読むたびに彼(か)の地から遠く子供たちの笑い声が聞こえてくるようだ。この詩を読むと、「まんさくの黄色」が脳裏に鮮やかに蘇(よみがえ)ってくるのはもちろんだが、それ以上に雪原や疎林の奥を元気いっぱい飛び回っている子供たちの姿が脳裏に浮かぶ。 

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丸山薫が代用教員をした「岩根沢小学校のその後」と「丸山薫記念館」と詩集『北國(北国)』・『仙境』

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丸山薫が代用教員をした岩根沢小学校(山形県)の校舎は、まだ壊されずに残っているが、既(すで)に廃校になってしまっている。校庭には彼の詩碑があり毎年詩碑保存会の総会が行われ、県内外から彼を慕う人々が集っている。また岩根沢には小さな「丸山薫記念館」があり、地元の人々の手で守られ、子供たちの詩の顕彰「丸山薫 青い黒板賞」がある。戦後80年、経とうとしている今でもなお、この記念館を中心に小中生を対象にした詩のコンクールが毎年続けられていて、記念館に入選作品の詩が掲示されている。その入選作品の詩の感性はすばらしいものだ。丸山薫がまいた一粒の種(たね)が立派に根付いているのだ。

なお、丸山薫は、この山の村で書いた詩集『北國』(昭和21年9月20日)、『仙境』(昭和23年3月31日)を発表した。
「冬は雪ふかく 夏はみどり濃き 月山の麓の村より この詩集を世におくる」   
(―詩集『北國』より― 一九四六年九月二十日)
「『仙境』とは、私の住む現實(現実)―正確に言へ(え)ば山形縣(県)西村山郡西山村岩根澤(岩根沢)の、月山に続く山腹と谿間(谷間)にちらばる一蔕(一帯で)の山人の世界―そこから立ち昇(のぼ)る雲烟(うんえん=雲とかすみ)である。私のからだはこゝに住み、こゝろはけむりの中に住んでゐた(いた)。 

           ☆  

 私が山の中で詩を書いてゐる(いる)のを評して、都會(都会)の或(あ)る若い詩人が「彼はもう分教場の窓から淡雪(あわゆき)でも眺めてゐる(いる)方がいいだらう(だろう)」と言った。はて、淡雪といふ(いう)ものはいったい何處(何処)の國(くに)で降つたらう(ろう)? ここは元來(元来)、糊(のり)でつぎ貼(は)りしたやう(よう)なら人間にはくらせない荒々しい自然の中である。雪は三メートルも積り、しかも人が決してその中を歩けないやう(よう)にしか吹雪(ふぶ)かないのだ。」
(一九四七年六月八日 山の村で著者しるす)
(―詩集『仙境』より―)                 
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「まんさくの花」が登場する詩は『白い自由画』のほかにもあるが、いずれもこの豪雪に閉じ込められる集落の代用教員時代に子供たちと接するうちに生まれた詩である。もう一遍(いっぺん)は丸山薫の『まんさくの花』という詩を御紹介する。

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   まんさくの花


まんさくの花が咲いた と
子供達が手折(たお)って 持ってくる
まんさくの花は淡黄色(たんこうしょく)の粒々(つぶつぶ)した
眼(め)にも見分けがたい花だけれど

まんさくの花が咲いた と
子供達が手折って 持ってくる
まんさくの花は点々と滴(したた)りに似た
花としもない花だけれど

山の風が鳴る疎林(そりん)の奥から
寒々とした日暮れの雪をふんで
まんさくの花が咲いた と
子供達が手折って 持ってくる

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春の訪れを発見し、みんなに告げる子供たちの喜んでいる姿が目に浮かぶ、とても素敵な詩ではないだろうか。