おととい金曜日ははNHK連続テレビ小説『ブギウギ』の最終回だった。趣里が演じるヒロイン福来スズ子(モデルは笠置シヅ子=戦後の大スターで「ブギの女王」として人気を博した歌手)が多くの困難を乗り越えて歌手の道を突き進み、人々に勇気と希望を与えていく姿を描いた『ブギウギ』。スズ子にとっての憧れの存在で、生涯の良きライバルとして、時に競い合い、時に支え合いながら芸能の世界を生きていくことになる菊地凛子演じる先輩歌手、茨田りつ子(モデルは淡谷のり子=戦前・戦後の大スターで「ブルースの女王」として人気を博した歌手)の二人の歌と人生の物語。この朝ドラ『ブギウギ』の中で戦争と歌をテーマに描かれた第14週66話(2024年1月5日放送)「戦争とうた」の中で背景となった太平洋戦争で日本の戦況がますます悪くなっていた1945年、茨田りつ子は、鹿児島の※「海軍基地」(出撃基地)を訪問し、慰問公演を開いた。黒のドレスで会場を下見すると、現地の少佐が「明日もその格好で歌うのか?」と尋ねる。「まさか」と茨田。「これは普段着、本番はもっと華やかにいく」と。「海ゆかば」は歌えるか、「同期のさくら」はどうだ、と軍歌を歌うよう頼む少佐。「歌えない。軍歌は性に合わない」が答えで、「私でお役に立てないなら」と帰ろうとする。ここまでは、戦争に迎合することを猛然と拒否してきた“憤り”の茨田だった。そこから、ぐっと変わった。会場の外から自分を見つめる若い兵隊たちに気づき、「あの子たちは?」と尋ねる。そして、彼らが特攻隊員だと説明される。茨田を見つめる彼らのキラキラした目に、少佐も折れる。「彼らの望む歌を歌ってくれ」と。担当者から※特攻隊として出撃する若い隊員たちのために歌ってほしいと懇願(こんがん)されたりつ子は、彼らが望む歌を歌うという折衷案(せっちゅうあん)を受け入れ、特攻隊員たちの見つめる中ステージに登った。肩の露出した青いドレスを着てステージに立ったりつ子は、基地にいる若い特攻隊員に「本日は皆さんのお望みの歌を歌いたいと思っていますので、遠慮なくおっしゃってください」と話しかけた。すると、隊員の1人が『※別れのブルース』を歌ってほしいと切り出し、これに多くの隊員が賛同。その様子を見た少佐は席を外し、りつ子は渾身の『別れのブルース』を披露した。しかし、淡谷のり子さんがうたっている間に出撃命令が下され、自分の子供ほどの年若き特攻兵として隊員たちが一人立ち、敬礼をして去っていく、また一人立ち、笑顔で敬礼をして退席していく。その姿を見たとき、淡谷さんの目からはとめどなくあふれるものがあった。隊員たちは退場したあと、海軍基地から飛び立ち、帰らぬ人となったのだ。淡谷さんが歌い終わると、会場は総立ちになり、隊員たちが口々に礼を言う。「晴れ晴れといけます!」「もう思い残すことはありません!」「元気でゆけます。ありがとうございました!」「迷いはありません!いい死に土産になります!」などとりつ子に感謝。廊下で聴いていた少佐は号泣し、りつ子も自分の歌を聞いた特攻隊員たちの覚悟の言葉と表情に、思わず涙が耐えられなくなって、舞台を下りると、舞台袖で泣き崩れた。この時は、後に鉄の女と思われていた淡谷さんも泣き崩れてしまったのだ。そして、この後に終戦を迎えた。なお特攻兵らが笑顔で出立した話は多い。心配させないため、人に会ったら必ず笑顔を浮かべろと教えられていたのだ。人影が絶えると打ってかわって沈痛な表情になってという報告もあった。(年端もいかない子たちに「晴れ晴れといけます」などと言われた、その声が耳から離れない、私の歌に背中を押されて死んでいったかもしれないと続け、茨田りつ子(淡谷のり子)こう言った。「悔しかったわ。だって歌は人を生かすために歌うものでしょ。戦争なんて、くそくらえよ」。福来スズ子はこう返した。「ほんなら、これからはワテらの歌で生かせな。今がどん底やったら、あとはよーなるだけですもんね。歌えば歌うだけ、みんな元気になるはずや」。鏡を見ていた茨田が振り返り、スズ子を見つめた。スズ子は茨田とは違う強さがある。)淡谷のり子さんは、「あんな悲しい想いをしたことはありません」と歌う前にはいつも言っていました。茨田りつ子のモデルである淡谷のり子さんが、「一度だけ観客の前で号泣して歌えなくなったのが、特攻隊の少年兵たちの前で歌った時だった」と後に語っている。また、第66話で描かれたシーンは、淡谷さんの実体験だった。りつ子(淡谷さん)は「歌はお客様に現実を忘れさせてくれるもの、生きる力を与えるもの」と信じていたが、この特攻隊の若き隊員たちは、みな「死地への旅立ちの歌」になったと言って退場した。若き特攻隊員が退場した時が隊員達の最期で、淡谷さんにとって辛い別れの時だったのだ。淡谷さんを演じた菊地凛子にとってもこのシーンが忘れられないものになったと強調している。

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※「海軍基地」は主として、軍艦など海軍の保有する海上兵器を非戦闘時や修理の際に留め置くための施設である。艦船を停泊させる港や桟橋の他にも、乾ドックなどの修理を行う施設や格納庫、艦隊司令部などが備わっている。さらには兵士の病院や新たな船舶を建造する造船所などが隣接する基地もある。「鹿児島県の海軍基地」は、他の日本の海軍基地よりも南の沖縄に1番近いので、連日,特攻機が南の空へと飛び立っていった。特攻隊員の多くは学徒出身の少・中尉や予科練出身の少年兵であった。鹿屋市(かのやし)には、太平洋戦争時に3つの飛行場が存在し、日本で最も多くの特攻隊が出撃した歴史がある。鹿屋海軍航空基地からは908名、串良(くしら)海軍航空基地からは363名の特攻隊員が出撃し、その尊い命を失った。現在、鹿屋に「特攻隊戦没者慰霊塔」、出水には「雲の墓標」,知覧(ちらん)には「特攻平和観音堂」,串良・国分(こくぶ)基地跡には「基地記念碑」が,平和への願いを込めて建てられている。ちなみに、大型爆弾と操縦席だけの特攻兵器『桜花(おうか)』に乗り込む予定だった元隊員の回想によると「『桜花』は陸上攻撃機につるされ、敵艦近くで分離されて滑空して体当たりするという。ほとんどが途中で散っていった。出撃拠点の鹿児島県の鹿屋基地に笑顔で向かう仲間を毎日見送った。」ということだ。

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※「特攻隊(特別攻撃隊)」は戦争末期に日本軍が組織的に行った。「特攻作戦」に大きく影響を与えたとみられる『玉砕(ぎょくすい)』は、昭和18年5月、アリューシャン列島のアッシ島で起きた。「全員『玉砕』せるものと認む」と、発表文にその言葉が登場する。「傷病兵は自決、残る兵全員が全力で攻撃」とある。『全員戦死』という言葉を使ったのでは「作戦参謀の責任」が問われかねないので、体裁(ていさい)のいい『玉砕』をひねり出したのだ。(転進、玉砕もだが、特攻も何だか格好良く扱われているようなのが気になる。)昭和19年(1944年)6月、日本軍はマリアナ沖海戦で400機 に及ぶ航空機とその搭乗員を失う。これ以前から、兵力の減少と搭乗員の技量低下の中で大きな戦果をあげるには、体当たり攻撃をするほかはないという声が、軍部の中で上がり始めていた。そして、昭和19年10月 、陸海軍ともにフィリピンの戦いで、爆弾を抱えた航空機で空母などを標的に突入する『特攻』を始めた。『特攻』は爆弾を積んだ飛行機やボートで敵の船に体当たりする攻撃で生還は望めず、パイロットは必ず死ぬことになった。パイロットの平均年齢は21.6才、一番若い人は17才(?)だった。第二次世界大戦中に行われたこの作戦によって、陸軍・海軍合わせて約4,000人が命を落とした。『知覧特攻平和会館』パンフレットより(鹿児島県南九州市)「戦争が始まった時、知覧にできた陸軍飛行学校の訓練飛行場は、1945年3月に『特攻基地』に変わりました。知覧の特攻基地からは439人が出撃して亡くなりました。そのようなことから、『知覧特攻平和会館』では、戦争を二度と繰り返してはならないことを伝えるため、特攻隊員の写真や手紙などを集めて、大切に展示・保管しています。(館内には、特攻隊員が書いたお母さんあての手紙がたくさん展示してあります。)」『戦歿(せんぼつ)学生の遺書にみる15年戦争』(わだつみ会編)(光文社カッパ・ブックス)『きけわただつみのこえ』(わたつみ(わだつみ)は海神を意味する日本の古語)1947年(昭和22年)に「東京大学協同組合出版部」により編集されて出版された東京大学戦没学徒兵の手記集『はるかなる山河に』に続いて、1949年(昭和24年)10月20日に出版された。 新聞やラジオ放送を通じて募集したもので、全国の大学、高等専門学校出身の戦没学生75人の遺稿が収められた。BC級戦犯として死刑に処された学徒兵の遺書も掲載されている。編集顧問の主任は医師、そして戦没学徒の遺族である中村克郎をはじめ、あとの編集委員として渡辺一夫・真下信一・小田切秀雄・桜井恒次が関わった。1963年(昭和38年)に続編として『戦没学生の遺書にみる15年戦争』が「光文社」から出版され、1966年(昭和41年)に『第2集 きけ わだつみのこえ』に改題された。『きけ わだつみのこえ』の刊行をきっかけとして1950年(昭和25年)4月22日に「日本戦没学生記念会(わだつみ会)」が結成された。類似した題名の映画が何本か製作されている。また、この刊行収入を基金にして、「戦没学生記念像わだつみ像」が製作され、京都市北区の「立命館大学国際平和ミュージアム」で展示されている。

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※『別れのブルース』

日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件が勃発するひと月ほど前の昭和12年6月、淡谷の代表曲となる『別れのブルース』が発売される。『別れのブルース』の歌詞は、服部良一が短調で抒情的な曲を創作したのちに、詩人・藤浦洸に当時の五円札を渡し、「本牧の夜をブルースの歌にしてほしい」と依頼したもので、夜を共にした(かもしれない)女性が、「窓を開ければ港が見えるのよ」と口にした言葉を曲の冒頭に取り入れたものだった。当初は、『本牧ブルース』という題名だったが、歌詞に登場する「メリケン波止場」が神戸にも存在することから『別れのブルース』に変更される。短調で切々と歌われるこの曲は、特に満州や上海などの大陸に駐屯している軍人・兵隊たちに人気があった。戦意高揚のための勇ましい歌よりも、「今日の出船はどこへ行く」といった「別れ」を表わす歌詞などに望郷への念を募らせていたのだろう。淡谷さんの静かな歌声が、前線にいる兵士たちの心にずしりと響いたことは間違いない。そして、いつしか『別れのブルース』は「死地への旅立ちの歌」になっていったのだろう。しかし、それから数年後、戦局の悪化により『別れのブルース』は発売禁止となる。

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テレビ朝日ー2005年8月15日「戦後60年、終戦記念日特集番組」(「徹子の部屋」より)

ブルースの女王といわれた歌手・淡谷のり子さんが、「別れのブルース」と特攻隊の若者たちについてテレビで黒柳徹子さんとしみじみ話していました。

ーー「別れのブルース」がすごくヒットし始めて、日本の国内よりも・・・

淡谷 あのね、国内ではあんまり売れなかったのよ。それがその年(昭和13年)の暮れころからどんどん売れてきたんですよ。それも満州の兵隊さんからなの。それが、大阪から東京へと(広まって)いって、トップをきっていったけれども、次の年の昭和14年に発売禁止になった。絶対に歌ってはいけないと・・・

ーーそう、その後の「雨のブルース」もそうなったでしょう。どうして、また禁止に・・・    

淡谷 センチメンタルだからだって、国民を鼓舞するような歌でなくてはダメだって。

ーー歌っちゃいけない歌を兵隊さんは歌ったんですってね。 

淡谷 あのころよく兵隊さんの慰問に外地に行って歌ったの。たしか、あれは上海だったかしら、東京の部隊だったのね、都会的な歌をたくさんリクエストされたあと、「もう一つどうしても歌ってくれ」と言われたの。 ーーそれは?  

淡谷 それが「別れのブルース」だったのよ。(問題の歌だったので、少しためらったけれど)明日(あした)がわからない兵隊さんでしょ、だからわたし歌ったのよ。そのとき歌い始めて、ひょっとみたら、憲兵さんと将校さんがホールから出ていったのよ。出ていってくれたの。そして、ひとつへだてた中庭の向こう側からこちらをのぞき見るように聞きながら、泣いているじゃないの、そういうことがあったの。だから私ね、最前線では軍歌など歌っても喜ばれないから、思い出のある歌をうたってさしあげたの。 

ーー私も聞いたことあるわ、そのころは、上官がそんな歌を許したら、上からこっぴどく叱られ、始末書をとられたんですってね。 

淡谷 それに私、モンペなんかはかなかった。(ドレスで決めていた)それとね、おかしかったのは楽器の名前のつけかた。横文字はいけないといって、ピアノは「洋琴」、バイオリンは「提琴」ですよ。ドラムは「太鼓」でいいけれど、サキソホンのことをなんっていったと思う?  

ーーあら、なんと? 

淡谷 「金属製先曲がり音響音出し器」って。そんなふうに「言えるものかっ」と思ったから言ってやったの、「おい、そこの尺八っ」て。(笑い)その笑顔が今でも忘れられないの 

淡谷 特攻隊の慰問にいったときのこと。いっぱい兵隊さんがいるんですよ。ちょっと横を向いたら2~30人もいたでしょうか、白鉢巻をした、なにか子どもみたいな兵隊さんがいるんですよ。まだ15~16歳ぐらいの。だから私、係りの人に聞いたんです。 

ーー15歳ぐらいの少年兵ね。 

淡谷 そしたら「はぁ、特攻隊員で平均年齢16歳です。命令がくれば飛びますよ」って。私、それを聞いただけで胸がモヤモヤしてきたんです。敵艦に突っ込むから帰ってこられないんです。「もし歌っている最中に命令が下されたら行かなければなりませんからごめんなさいね。悪く思わないでください」、命令がこなけりゃいいなあと思っていたら、やっぱりきたの。命令が・・・。さっと立ち上がって、私の方を向いてみんなニコニコ笑いながら、こうやって(敬礼の格好)行くんです。 もう、泣けてなけて、次の歌はもう(声が)でなくなりましたよ、悲しくて。16歳よ、平均年齢が、そして、飛んでいきましたよね。コーヒーで乾杯して。私、その笑顔が(今でも)忘れられないんですよ。一人ひとりの笑顔が。あんな悲しい想いをしたことはありません。 

ーーほんとにつらい話ですね。特攻隊の人たちは飛び立つこと(離陸の仕方)は知っていても(飛行時間は数十時間)着陸する方法は習っていなかったといいます。戦後60年、戦争をご存知の方は知っていると思いますが、できることなら若い方にも(この番組)見ていただいて、ほんとうに戦争というものは悲しくてつらいものだということを知っていただきたいと思います。