2月27日にアメブロで紹介されていた川島勝『三島由紀夫』の記事を読んでいて、「林房雄」の『三島由紀夫と西郷隆盛』の文章のことが思い出されました。『大東亜戦争肯定論』で知られる「林房雄」は、『現代語訳 大西郷遺訓』(新人物文庫)の中で、「西郷嫌いの日本人も少なくない。若い頃の『三島由紀夫』も西郷嫌いだった。」と述べ、43歳になった三島の『銅像との対決──西郷隆盛』という一種の告白文を紹介しています。1970年に天に旅立った「三島由紀夫」のことはご存知でも「林房雄」のことをご存知の方は多くはないと思うので、この『三島由紀夫と西郷隆盛』の文章の一部を抜粋して、皆様にご紹介いたします。
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「西郷さん。明治の政治家で今もなお“さん”づけで呼ばれている人は貴方(あなた)一人です。その時代に時めいた権力主義者たちは、同時代人からは「畏敬の念(いけいのねん=畏[おそ]れて敬う心情のこと)」で見られたかもしれないが、後代(こうだい)の人たちから何らなつかしく敬慕(けいぼ)されることはありません。あなたは賊(ぞく)として死んだが、すべての日本人は、あなたを『もっとも代表的な日本人』と見ています。」
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「恥ずかしいことですが、実は最近まで、あなたがなぜそんなに偉いのか、よくわからなかったのです。……私にはあなたの心の美しさの性質がわからなかったのです。それは私が、人間という観念ばかりにとらわれて、日本人という具体的問題に取り組んでいなかったためだと思われます。私はあなたの心に、茫漠(ぼうばく=とりとめがないほど広いさま)たる反理性的なものばかりを想像して、それが偉人の条件だと考える日本人一般の世評に、俗臭(ぞくしゅう=いかにも俗世間のものだという感じ)をかぎつけていたのです。」
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「しかし、あなたの心の美しさが、夜明けの光のように、私の中ではっきりしてくる時が来ました。時代というよりも、年齢のせいかもしれません。とはいえ、それは、日本人の中にひそむもっとも危険な要素と結びついた美しさです。この美しさをみとめる時、われわれは否応なしに、ヨーロッパ的知性を否定せざるをえないでしょう。」
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「あなたは涙を知っており、力を知っており、力の空(むな)しさを知っており、理想の脆(もろ)さを知っていました。それから、責任とは何か、人の信にこたえるとは何か、ということを知っていました。知っていて、行ないました。」
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三島は次の一節を「西郷隆盛の銅像」に語らせて、告白文を結びます。
「三島君。おいどんはそんな偉物(えらぶつ)ではごわせん。人並みの人間でごわす。『敬天愛人』は凡人の道でごわす。あんたにもそれがわかりかけて来たのではごわせんか?」
これは三島が43歳のときに書いたもので『※蘭陵王(らんりょうおう)』に収められています。
※『蘭陵王』は中国・北斉の皇族「高長恭(こうちょうきょう)」の諸侯王としての称号で、「高長恭」はもっぱら「蘭陵王」として知られ、三島由紀夫の短編小説『蘭陵王 』の題材となりました。
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林房雄は『西郷と三島』について、
「西郷は百年の後に、再び三島由紀夫という最良の知己(ちき=自分の心をよく知ってくれる人)を得た。三島の市ヶ谷台決死行の道案内者の中には、西郷もまた加わっていたような気がしてならぬ。」と述べ、さらに
「西郷隆盛は不思議な人物である。十年か十五年ごとに復活して、また立ち去って行く。日本人は彼と対談することによって幾度か危機を乗越えた。危機は戦争のみとは限らぬ。精神の衰弱(すいじゃく)こそ大危機である。いまは、その時が来ているようだ。西郷の声を聞こう。」と語りかけました。