《当たり前田の耳寄りテレビ番組紹介》
『二風谷(にぶたに)に生まれて 〜アイヌ 家族100年の物語〜』
NHK[Eテレ1]ETV特集
初回放送日: 2024年2月3日(土)
再放送日:2024年2月3日(土) 午後11:00 〜 午前0:00
     2004年2月8日(木) 午前0:00 〜 午前1:00
北海道平取町(びらとりちょう)の二風谷(にぶたに)には、「アイヌ民族」にルーツを持つ人が多く暮らす。貝澤太一さんもその一人。祖父と父は「二風谷ダム裁判」を提起し、初めて※「アイヌを先住民族と認める判決」を勝ち取った。あれから30年近くがたち、何が変わり、何が変わっていないのか。太一さんは祖父と父が歩んた過去を振り返ろうとしている。太一さんの視点から3代にわたる家族とアイヌの歴史をひも解き、日本社会とアイヌ民族の現在と未来を見つめる。
※1997年の『二風谷ダム判決』では、アイヌ民族が先住民族であるとはしませんでしたが、「北海道における先住性を認めること、そして文化享有権の侵害を認め二風谷ダムの建設にかかる土地収用は違法である」と認められました。
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《二風谷(にぶたに)》 
北海道沙流郡(さるぐん)平取町(びらとり)の字(あざ:村の中の小さな集落や農地[畑・田]を特定するために使われてきたもの)。(2010年10月1日現在の人口は395人である。)平取町は日高地方の西端に位置し、総面積743.09k㎡・東西52.8km南北41.1kmで、形はやや北海道に似た三角形状の町です。 平取町役場がある平取市街より国道237号を沙流川沿いに4km ほどさかのぼった地点にあたる。人口の過半数をアイヌが占め、北海道内でアイヌの比率が最も高い地域とされる。「※萱野茂(かやのしげる)二風谷アイヌ資料」や、「二風谷アイヌ文化博物館」があり、「アイヌの伝統的な家屋のチセかを訪れることが可能である。また、「びらとり温泉」や「二風谷ファミリーランド」といった娯楽施設、「旧マンロー邸(現:北海道大学文学部二風谷研究室、ニール・ゴードン・マンローが、1933年より1942年まで、医院を開業し居住していた邸宅)」が所在する。
※萱野 茂(1926年[大正15年]6月15日 - 2006年[平成18年]5月6日)は、現在の平取町二風谷に生まれ、アイヌ語しか話せない祖母の影響でアイヌ語を母語として育つ。小学校卒業後は造材人夫として生計を立てる。コタン(集落)からの民具の流出に心を痛め、1953年(昭和28年)頃からアイヌ民具、民話の収集記録を始める。1960年(昭和35年)アイヌ語研究者であった、金田一京助博士や知里真志保の影響により、アイヌ語の記録を始める。1973年頃より著作活動をさかんに行い、亡くなるまでに多数の著書を残す。日本のアイヌ文化研究者、政治家。アイヌ文化、アイヌ語の保存・継承のために活動を続けた。アイヌ初の国会議員(1994年から1998年まで参議院議員)。
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《知里幸恵(ちりゆきえ)の紹介》
知里幸恵(1903年[明治36年]6月8日-1922年[大正11年]9月18日、北海道幌別郡[現・登別市/札幌市から南へ約100キロ]出身のアイヌ女性。)の祖母・「モナシノウク」は『ユーカラクル』、すなわち『アイヌの口承の叙事詩“カムイユカラ”の謡い手』であった。『カムイユカラ』は、「文字を持たなかったアイヌにとって、その価値観・道徳観・伝統文化等を子孫に継承していく上で重要なもの」であり、『幸恵』はこの『カムイユカラ』を身近に聞くことができる環境で育った。幸恵の生まれた頃は、ロシアによる領土侵略を防ぐため、明治政府が北海道を開拓し始めてから30年以上がたっていた。この幸恵の家を言語学者の『金田一京助』が訪れたのは、幸恵が15歳の時であった。「金田一の訪問目的」は『アイヌの伝統文化を記録すること』であった。幸恵は、金田一が幸恵の祖母たちから『アイヌ伝統のカムイユカラ』を熱心に聞き記録に取る姿を見て、金田一のアイヌ伝統文化への尊敬の念、カムイユカラ研究への熱意を感じた。幸恵は「カムイユカラを『アイヌ語から日本語に翻訳』する作業」を始めた。やがて、「カムイユカラを『文字』にして後世に残そうという金田一からの要請」を受け、東京・本郷の金田一宅に身を寄せて翻訳作業を続けた。
幸恵は重度の心臓病を患っていた(当時は慢性の気管支カタルと診断されていた)が、「翻訳・編集・推敲作業」を続けた。『アイヌ神謡集』は「1922年(大正11年)9月18日に完成」した。しかしその日の夜、心臓発作のため死去。19歳没。「幸恵が完成させた『アイヌ神謡集』」は、「翌1923年(大正12年)8月10日に、柳田國男の編集による『炉辺叢書』の一冊として、郷土研究社から出版」された。わずか19年      という短い生涯ではあったが、その著書『アイヌ神謡集』の出版が、絶滅の危機に追い込まれていた『アイヌ伝統文化の復権復活へ重大な転機をもたらした』ことで知られる。
《知里幸恵の著書》    
『アイヌ神謡集』(岩波文庫)
『ユーカラ鑑賞』共著(潮文社新書)
『地名アイヌ語小辞典』(北海道出版企画センター)
『銀のしずく降る降る』(知里幸恵『アイヌ神謡集』より)(編訳者:知里幸恵、絵:横山孝雄)(星の環会)
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ウポポイ(民族共生象徴空間)より
《アイヌ民族とは》
『アイヌ文化について』
アイヌ民族は日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族です。日本語と系統の異なる言語である「アイヌ語」をはじめ、自然界すべての物に魂が宿るとされている「精神文化」、祭りや家庭での行事などに踊られる「古式舞踊」、独特の「文様」による刺繍、木彫り等の工芸など、固有の文化を発展させてきました。古い記録から伝統的な踊りを復活させようと取り組む人たちや、新しいアイヌ音楽を創造する人たちも増えています。
『ことば』
アイヌ語は北海道、樺太、千島列島などのことばで、日本語とは別の言語です。「~が」「~を」「~する」の順に単語を並べるなど日本語と似ている部分もありますが、文法的には異なる部分が多くあります。かつては口頭でのみ使われてきましたが、現在は、従来のカタカナにはない文字(ト゚、ㇰ、ㇷ゚、ㇵなど)も使いながら工夫して表記されています。明治以降の近代化の過程によって失われていき、2009(平成21)年、ユネスコによって消滅の危機にある言語と位置づけられました。
『世界』
人間の周りに存在するさまざまな生き物や事象のうち人間にとって重要な働きをするもの、強い影響があるものをカムイと呼びます。カムイはあらゆるところに存在していて、いつも自分たちを見守っていると考えます。例えば、動植物や火、水、風、山や川などもカムイであり、カムイは肉や毛皮などを土産として人間の世界にやってきます。イオマンテは、カムイのラマッ(霊魂)をもてなして、再びカムイの世界に送り帰す儀礼です。
『くらし』
アイヌ民族は、動物の毛皮、魚の皮、鳥の羽がついた皮、そして木や草の繊維など、身近にある材料のほか、交易によって手に入れた絹や木綿など、いろいろな布を使って衣服をつくりました。食事の場には、サケやシカ、アザラシの肉、季節の植物といった、自然のサイクルに寄り添った食材がならびます。チセ(家屋)では、男性は道具をつくったり、狩猟具の手入れをし、女性は衣服やござなどをつくり、食事の支度をしました。
『歴史』
アイヌ民族の歴史は、アイヌ自身が語り継ぎ残してきた歴史と、周辺の民族が書き残した足跡から描かれます。それらは、旧石器時代から現代までの時間軸、及び周辺の人々との交流を含めた空間の広がりの中で理解されるべきものです。その際、通説的な9~13世紀における「アイヌ文化の成立」という理解ではなく、通史的な継続にもとづく年代観をもつことが重要です。
『しごと』
アイヌ民族は伝統的なくらしの中で、山ではクマ、シカなどの動物をとりました。春にはギョウジャニンニクなどの山菜、夏にはオオウバユリ、秋にはヤマブドウなどを採集するほか、地域によっては畑で穀物や野菜をつくりました。海ではアザラシやメカジキなどのほか、コンブもとりました。毎年秋に川をのぼるサケは、重要な食料の一つです。現代のアイヌ民族は、昔のままの生活を送っているわけではありません。以前にはなかったさまざまな「しごと」を行い、時代に合わせて多様な生活を営んでいます。 
『交流』
アイヌ民族が暮らしてきた北海道、樺太、千島列島の周辺には多くの民族がおり、活発な交流が行われてきました。南には和人、北にはニヴフや、ツングース系の先住民族であるウイルタやウリチ、東のカムチャツカ半島にはイテリメン、アリューシャン列島にはアレウトが住んでいました。アイヌ民族の文化は、隣接する北東アジアなどの周辺の民族との交流や、世界各地の先住民族との交流を通じて、現代に継承されています。
平日:9:00〜17:00
土日祝日: 9:00〜17:00
閉園日 :月曜日および12月29日~1月3日、2月20日~2月29日 
※月曜が祝日または休日の場合は翌日以降の平日に閉園※但し2月5日は開園
ウポポイ(民族共生象徴空間)
〒059-0902
北海道白老郡白老町若草町2丁目3