服従(マゾヒズム)と支配(サディズム)は、いずれも

耐えがたい「孤独感」と「無力感」からの逃避である。

 

 

 

 

 

支配的なから服従的なを遠ざければ

その夫は、まさに孤独と無気力に

さいなまれる。

 

 

 

 

つまり権威主義的支配的な夫から

妻が距離をとれば夫は力をなくしていく。

(韓国人から日本人が遠ざかるも同じ)

 

 

 

 

 

が、しか~し服従的な妻は、

支配を受けなければ、これまた孤独と

無力感を感じ、それに耐えられず、

支配的な夫から、

離れる事ができないのである(やれやれ)

 

 

 

 

これもまた依存心である。

 

 

 

 

よく韓国ドラマで、

酒に酔った夫が仕事もせず酒を飲み、

屋台で1日中、働く妻の店に来て

テーブルをひっくり返しながら

大声で暴れるシーンがある。

 

 

 

 

足で踏みつけられ殴られる妻を

見かねて、ドラマの若い主人公が、

暴れる夫の胸ぐらを掴み、

ボコボコにする。

 

 

 

 

すると、後ろからお盆のようなもので

主人公を殴る女性が現れる。

 

 

 

 

やめてーそんなことしたら

死んじゃう!

なんてことするのー

この、この!(お盆で叩く)

 

 

 

 

 

この女性がなんと殴られていた妻だ。

血まみれになっても、骨が折れても、

なぜか夫をかばうのだ。

 

こんなバカな女が実際に実在するのである。

 

 

 

 

 

そして教会にしがみつく食口

この気が多少なりともある。

 

これはどうしようもない。

こんな人は教会がなくならない限り、

絶対に教会から離れられないのである。

み言葉や真理など関係ない。

 

 

 

 

初めから真の家庭(全部)の原理違反

軽く流して組織に身をおく。

どんなことでも許してしまう。

 

 

 

 

 

服従(マゾヒズム)

マゾヒズム的な人間は、劣等感、無力感、

個人の無意味さの感情にとりつかれている。

 

 

 

 

彼らは意識的にはこの感情を不満に思い、

それから逃れようとしているが、

無意識的には自分を無力な重要でない

ものと感じている。

 

 

 

 

大抵の場合彼らは、外側の力に、

他の人びとに、制度に、あるいは自然に、

ハッキリよりかかろうとしている。

 

 

 

 

彼らは自分を肯定しようとせず、

したいことをしようとせず、

外側の秩序に服従しようとする。

 

 

 

 

またマゾヒズム的な傾向は

合理化されることが多い。

 

 

 

 

マゾヒズム的な依存はとか忠誠と思われ、

劣等感は実際の欠点の適切な表現と思われ、

悩みはすべて変化しない

環境のせいだと思われる。

 

 

 

 

マゾヒズムは、自分自身から逃れ、

自己を取り除くことによって、

再び安定感を得ようとするための

一つの方法である。

 

 

 

 

マゾヒズムの狙いは、個人的自己から

逃れること、自分自身を失うこと、

言い換えれば自由の重荷から

逃れることである。

(自身の人生を自分で創造できない)

 

 

 

 

この狙いは個人が圧倒的に強いと

感じる人物に服従しようとする

マゾヒズム的努力の内にはっきり表れる。

 

 

 

 

マゾヒズムでは、個人は孤独感や無意味感

という耐えがたい感情から逃れたい

という強い強迫によって動かされている。

 

 

 

 

マゾヒズム的絆は逃避である。

個人は「第二次的絆」の中に安定感を

求めようとするが、この試みは成功しない。

 

 

 

 

意識的には個人は安全であり

何かに属していると感じることができるが、

彼は彼がしがみつく力とは決して

一つになることはなく、根本的な対立が残り、

マゾヒズム的な依存に打ち勝ち

自由になろうとする衝動が残る。

 

 

エーリッヒ·フロム

 

 

 

 

 

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