随分前、ゴールドコーストの有名デパートで働いた。働いたといっても一般スタッフのする仕事ではなく掃除である。しかもデパートの正社員ではなく、大手清掃会社からの派遣で、そのストアー専門に日曜以外、毎日の勤務だった。
一年の内でクリスマスセール前の忙しい時期とか特別セールが催される以外、通常デパートの営業時間は午前9時から午後6時まで、営業時間中はお客さんが居るから、掃除機を使うとかモップによる床拭きなど出来ない。それで開店前とか閉店後がその時間帯となる。朝は6時スタートで9時までの3時間、月曜から金曜日まで、夜は金曜日と土曜日で午後6時から8時まで、日曜日はデイオフだった。作業シフトは私のメインの仕事、マーケットの営業時間と全く重ならなかった。
朝の6時前にスタッフ用出入り口の前で待っていると、一人のセキュリティマン(ガードマン)が出勤して来て、ドアーの鍵を開けてくれた。冬の時期、朝は6時でもまだ暗くて寒い、セキュリティマンの来るのが遅い時には、近くに駐車した車の中で寒さを凌いだ。自宅からは車で5分、非常に近距離だったので暖かくなり次第、私は自転車で通勤することにした。
デパートの全スタッフは出勤と退社の時には、この通用ドアーを必ず通らねばならない。このドアーを入るとすぐ右に階段があり、二階のセキュリティルームに通じている。セキュリティルームの前にカウンターがあって、派遣員とか出向社員は出勤時間と会社名、それに目的をノートに記入する。なおデパートの従業員は自身のカードをタイムレコーダーに通している。
セキュリティルーム内にはロッカーがあって、財布以外の手荷物は、ここに収納することになっている。原則として自身の手荷物を店内へ持込は禁止されているからである。退社の時にはこの逆の手順をふむが、店長や店員とは言え、品物を持っているとセキュリティマンから徹底的に点検を受ける。でもポケットに入るような小物まで、いちいち検査はされない。しかも電磁検査ゲイトを通過するわけでないから、貴金属とか時計の場合は一体どうなるのか。どちらにしても、いい加減な検査である。ところでセキュリティマンのチェックは一体誰がするのだろう。この国ではセキュリティマンは最も信用されていない人達なのである。
昨今日本でも外国人による犯行が増え、諸外国並みの犯罪多発国となった。昔の日本ではお金の入った財布を落としても、そのまま落とし主に戻ってきた。外国ではそれを拾ったら、神様からの贈り物だと喜んで、有難く頂戴してしまうのである。日本人にはとても信じられないが、多宗教、多民族、多カルチャー国家ではそれが普通であり、誰も責めることは出来ない。
さて、保安室の外部ドアーを開けると、そこはもうデパートの広い売り場である。セキュリティマンは我々派遣員の為に朝早く出勤し、記帳の準備とか、売り場の電気を付けたり、エレベーター、エスカレーターのスイッチを入れたりする。我々清掃員の部屋はグラウンドフロアーにあり、多種類の掃除道具が無数に置かれ、そこは休憩の為の部屋ではない。机の上に、名簿が置かれ、もう一度、仕事を始めた時間、そして終了したら、時間をそのシートに記載して帰宅する。これを基にして各々の給料計算が行われるのである。
清掃員の人数は8名、スーパーバイザー(管理人)は彼等への仕事の振り分けと給料計算を行う。欠員が出た場合、スーバーバイザーは新規採用をし、補充していくが、見つかるまで自ら穴埋めの作業をしている。
スーパーバイザーは60才近くで脂ぎった小太りのおばさんで名前をキムという。TEMPOという会社が全国ネットの清掃会社でそのブランチがブリスベンにあり、ここのマネージメント全般をしている。ゴールドコーストではキムが責任者で、しょっちゅうブリスベンのオフィスと連絡を取り合っている。
私は以前働いていた掃除夫が辞めたので、その仕事の後を受け継いだ。名簿表で彼の欄を見ると、何か事情があって突然辞めた感じがした。管理人のキムとか、他のスタッフに彼の事を聞くと顔をしかめて多くを語らなかった。
キムは仕事の場所とか手順、簡単な掃除器具の使い方等を私に大雑把に教えた。この国ではどのような職種にも技能資格がある。清掃業にもこれがあって、会社によっては資格や経験を聞かれたりするが、この職業はこれらに関して一番ゆるい方で、ここでは一切問われなかった。
清掃スタッフはスーパーバイザーのキムを含めて7人、この人数で4階建てデパートすべての掃除をする。時間が3時間と決められているので、ゆっくりやっていると間に合わない、各所を大急ぎで済まし、次の場所へと移動して行く。
私は4階フロアー全部と3階フロアーの半分を任された。4階にはホワイトグッズ(冷蔵庫、洗濯機、エアコン、掃除機等)売り場、ベッド、応接セット等の家具売り場、子供服と靴、婦人服、おもちゃ売り場にレストランがある。
掃除道具はモップとバケツ、掃除機にチリトリとほうき、それにダスター(楕円形のほこり収集モップ)それらすべてをトローリー(手押し車)に乗せて4階のレストランまで持っていき、ここを基点として道具類を選びながら、各所の掃除をしていくのだが、信じられない程の大きさである。
スーパーバイザーのキムは遠慮しながら、マイヤースタッフのダイニングルームも追加して掃除するようにと、私をその場所まで連れて行った。この部屋は水道に流し台、お茶とコーヒー用湯沸かし器、クッキング用コンロだけが付いていないキッチンと100平方メートル程のダイニングルームになっている。デパートの全従業員が昼食を取ったり、休憩の時ここへ来てコーヒーを飲んだりするところである。客の来る売り場では食事が出来ない、そこで昼時になったら交代で、ここへやって来て食事をするのである。
「ここは子供連れも食べにくるのか?」と聞くと「いや来ない。大人だけだ」と不思議そうな顔をした。「ブラディ、ダーティ、イズント イット」と言うと、「オーイエス」と小声で答えた。「ここは毎日掃除をしているのか?」と聞くと、彼女は何も言わなかった。テーブルの下はお菓子のくずが周囲一杯にちらかり、食べる時、口からこぼれ落ちたと言うより、子供が、いたずらで、手で潰して、撒き散らした感じである。
ガラス張りになった8畳程のテレビ付部屋が別にあり、そこに応接セットが周囲にずらっと並べて置かれているが、そこはダイニングテーブルの下よりもっと汚かった。応接セットを移動させると、食べ残しも出てきた。この部屋にはゴミ箱がない、わざわざキッチンまで捨てに行くのが面倒なのであろう、ソファーの隙間に残飯がいっぱい詰め込まれていた。
私はゴミが隠れるように、移動させた椅子を再び元に戻した。「ここはどのように掃除するのか?」と聞くと、「掃除機をかけるのは週に一度位、時間に余裕がないので、ふだんはスクーピングだけで良い」(スクーピングとは、長い柄のあるチリトリとほうきで、大きなゴミだけをかき集める簡素な掃除法)それにしてもオーストラリアで一流のデパートで働く人達のマナーの悪さにはびっくりした。とても日本では考えられない光景である。
勤め出して3日後、このスクーピングをエスカレーター近くでやっていると、ネクタイにスーツ姿、45歳くらいの大柄な男性が近づいて来た。そして「掃除機は使わないのか?」と聞く、「2日前に掃除機をかけた、今日は時間の都合で、これしか出来ない。貴方は一体誰なのか。このデパートのマネージャー(支配人)か?」と尋ねると「そうだ」と答えた。
言いたい事があれば、スーパーバイザーのキムに直接言えば良いのである。どうして一清掃員である私に言うのか、「さては以前、お互いに気まずいことでもあったのかな?」と感じた。この話を当日シフトが同じだった先輩のマットに話したら、たちまちキムにも伝わった。
そこでキムは「マネージャーの出勤、退社時間にはエスカレーター付近でのスクーピングを止めるように」とスタッフ全員に告げた。なんだか変である、「どうして正々堂々と仕事をしないのだろうか?」との疑問だが、この理由がだんだん分かってきたのである。
10年近く勤めている同僚に、ソビエト崩壊前は共産圏、アレキサンダー大王でも有名なマケドニア出身者がいた。 鋭い目付と顔はスパイ映画でKGBを連想させた。名はゴードンと言って、35歳である。魚釣りが大好きで、それ以外の話はあまりしたことはなかったが、あるとき、彼が私の側へ寄ってきて小声で、「5年前には清掃スタッフが14名もいたが、今は半分となってしまった。当時床などはピカピカだったよ」と言った。「経費削減のための人員を減らしか?」と聞くと、「そのとうりだ」と答えた。
マイヤーは清掃業務を、全国ネットでやっている大手の会社、テンポに年間契約で委託させていた。ところが、かなり経費がかかっていることに気付き、数年前の契約から、突然半分に削減してきたのである。しかたなくテンポも人数を減らさざるを得なくなった。
その時スーパーバイザーのキムと、マネージャーが作業の範囲及び内容等で、かなり言い争ったに違いない。それ以来、二人は口をきかなくなってしまったのではないか、エレベーターでお互いが乗り合わしても、顔をぷっと横に向けたまま、挨拶一つしたことがない、それは、それはひどい状態である。会社が別々なので上下関係もない、もっともこの国の企業は縦割り組織でないから、マネージャーとは言え、一サラリーマンにすぎなく、一般社員もぺこぺこはしない。それにしても、このマネージャー、掃除なんかの小さな事に口を出すより、デパートの売り上げをもっと増やす方法を考え、ゆとりのある必要経費を支出して欲しいものである。