【テーマ・こくご】
やあ、ぼっちゃん
熱心に勉強なすっているねえ
と突然知らないおじさんが
ぼくに声を掛けてきた
ぼくは少しぎょっとして
なるべくおじさんを見ないように答えた
「勉強じゃありません」
するとおじさんは
ぼくを覗きこんで言った
おや、勉強じゃない
すると熱心に何をこしらえていらっしゃるんです?
「字引を作っているんです」
ぼくはいつも
見聞きしたことをいちいち
メモみたいに書いていた
そうしたらいつのまにか
それはものすごくたくさんになって
思い出すのが大変なものだから
見たことや聞いたこと
思ったことや感じたことを
赤やら青やら黒やらで
いろいろに色分けをしてみたり
五十音順に並べてみたり
好きか嫌いかで分けてみたり
索引を作るのが大変だった
おじさんが話しかけてきたとき
ぼくは自分に関係することを
色分けしたり並べたりして
忙しかったんだ
おじさんはさも感心したように言った
たいしたもんですねえ
いやエラいもんです
なかなか私などには
どうして字引が作れましょう
なにしろすぐに忘れるものですから
書き留めようと思ったときには
もう書き留めようとしたことを
忘れてしまうんですな
「忘れないように辞書にしているんです
覚えきれないから調べるんです
ここにはぼくの全部があります」
ぼくはつい
得意になって言ってしまった
おじさんはぼくが
浮かれて得意になったことには
気づかなかったみたいで
今度は不思議そうにぼくを眺めながら言った
だけど、ぼっちゃん
あんまりたくさんで
字引ばかりが分厚くなったら
重くてたいへんじゃないんですか
見たところぼっちゃんの
背の届かないところまで
難しい文字がいっぱいですよ
あそこのあれなんかは
一体どうやって見られるんですか
ぼくは少し困った
おじさんが指したあれは
もうずいぶん見ていない
たぶん書いてそれきりだった
「ときどきこうして色に分けたりしますから
あそこのあれには色がないでしょう
色を着けたらいつでも見られます」
ぼくは咄嗟にそう言ってしまったけれど
おじさんはやっぱり気がつかなかったみたいで
やっぱり感心したように言った
そうなんですか
管理がゆきとどいて
素晴らしいことです
ところで、ぼっちゃん
今はどんなことを
色に分けていらっしゃるんですか
ぼくは安心したのか
このおじさんのことを
前から知っているような気がしてきて
答えた
「自分に関係することがらを集めています
たとえばこれは自己嫌悪です
こっちは自己満足です
同じ自分のことでも色が違うんです」
おじさんは不思議そうに言った
すると自分のことと自分のことでないことを
まずは色をお分けになって
それからまた自分のことを
いろいろに色をお分けになるんですか
「そうです」
ぼっちゃん、色が足らなくなりはしませんか
ぼくはまた少し困った
色が足らなくなるなんて
考えたこともなかった
「色は無限に作れます
だから大丈夫なのです」
すると、ぼっちゃん
ぼっちゃんのおっしゃる自分のことは
無限の色に分かれていくんじゃありませんか
ぼくは少しムッとした
きっとおじさんはぼくが
少しくらいムッとしたところで
気づきやしないだろう
「近いものは同じ色に分けますから
色が無限にあっても大丈夫なのです
ご心配は無用です」
ぼくが少し強く言ったら
おじさんは悲しそうになった
ぼくは少ししまったと思った
おじさんは言った
ぼっちゃんは忙しくていらっしゃる
私などにはぼっちゃんは
ぼっちゃんひとつの色に見えます
私などには自己嫌悪も自己満足も
なにやら分別つきません
ぼっちゃんは賢くていらっしゃるんです
それでこちらの自尊心というものは
何色とおっしゃるんですか
たいそう綺麗な色ですなあ
「それは特別にあしらった色ですから」
ぼくはなんだか
おじさんにイライラしていた
やっぱり知らないおじさんだ
いろいろ詮索されてぼくは不機嫌だった
おじさんは言った
特別あしらいですか
たいしたもんですなあ
きっとたいそう大事なものなんでしょう
いやいや…
たいしたもんですなあ…
突然おじさんは
すがたを消した
ぼくはおじさんが誉めてくれた
特別な色を本当は覚えていなかったから
おじさんがもう質問してこないとわかって
少しホッとした
そして自尊心の色を確かめようと
自尊心を探したけれど
それはずっとあそこのあれよりまだ遠く
何色にも分けられないまま
ぼくの背の届かないところにあった
やあ、ぼっちゃん
熱心に勉強なすっているねえ
と突然知らないおじさんが
ぼくに声を掛けてきた
ぼくは少しぎょっとして
なるべくおじさんを見ないように答えた
「勉強じゃありません」
するとおじさんは
ぼくを覗きこんで言った
おや、勉強じゃない
すると熱心に何をこしらえていらっしゃるんです?
「字引を作っているんです」
ぼくはいつも
見聞きしたことをいちいち
メモみたいに書いていた
そうしたらいつのまにか
それはものすごくたくさんになって
思い出すのが大変なものだから
見たことや聞いたこと
思ったことや感じたことを
赤やら青やら黒やらで
いろいろに色分けをしてみたり
五十音順に並べてみたり
好きか嫌いかで分けてみたり
索引を作るのが大変だった
おじさんが話しかけてきたとき
ぼくは自分に関係することを
色分けしたり並べたりして
忙しかったんだ
おじさんはさも感心したように言った
たいしたもんですねえ
いやエラいもんです
なかなか私などには
どうして字引が作れましょう
なにしろすぐに忘れるものですから
書き留めようと思ったときには
もう書き留めようとしたことを
忘れてしまうんですな
「忘れないように辞書にしているんです
覚えきれないから調べるんです
ここにはぼくの全部があります」
ぼくはつい
得意になって言ってしまった
おじさんはぼくが
浮かれて得意になったことには
気づかなかったみたいで
今度は不思議そうにぼくを眺めながら言った
だけど、ぼっちゃん
あんまりたくさんで
字引ばかりが分厚くなったら
重くてたいへんじゃないんですか
見たところぼっちゃんの
背の届かないところまで
難しい文字がいっぱいですよ
あそこのあれなんかは
一体どうやって見られるんですか
ぼくは少し困った
おじさんが指したあれは
もうずいぶん見ていない
たぶん書いてそれきりだった
「ときどきこうして色に分けたりしますから
あそこのあれには色がないでしょう
色を着けたらいつでも見られます」
ぼくは咄嗟にそう言ってしまったけれど
おじさんはやっぱり気がつかなかったみたいで
やっぱり感心したように言った
そうなんですか
管理がゆきとどいて
素晴らしいことです
ところで、ぼっちゃん
今はどんなことを
色に分けていらっしゃるんですか
ぼくは安心したのか
このおじさんのことを
前から知っているような気がしてきて
答えた
「自分に関係することがらを集めています
たとえばこれは自己嫌悪です
こっちは自己満足です
同じ自分のことでも色が違うんです」
おじさんは不思議そうに言った
すると自分のことと自分のことでないことを
まずは色をお分けになって
それからまた自分のことを
いろいろに色をお分けになるんですか
「そうです」
ぼっちゃん、色が足らなくなりはしませんか
ぼくはまた少し困った
色が足らなくなるなんて
考えたこともなかった
「色は無限に作れます
だから大丈夫なのです」
すると、ぼっちゃん
ぼっちゃんのおっしゃる自分のことは
無限の色に分かれていくんじゃありませんか
ぼくは少しムッとした
きっとおじさんはぼくが
少しくらいムッとしたところで
気づきやしないだろう
「近いものは同じ色に分けますから
色が無限にあっても大丈夫なのです
ご心配は無用です」
ぼくが少し強く言ったら
おじさんは悲しそうになった
ぼくは少ししまったと思った
おじさんは言った
ぼっちゃんは忙しくていらっしゃる
私などにはぼっちゃんは
ぼっちゃんひとつの色に見えます
私などには自己嫌悪も自己満足も
なにやら分別つきません
ぼっちゃんは賢くていらっしゃるんです
それでこちらの自尊心というものは
何色とおっしゃるんですか
たいそう綺麗な色ですなあ
「それは特別にあしらった色ですから」
ぼくはなんだか
おじさんにイライラしていた
やっぱり知らないおじさんだ
いろいろ詮索されてぼくは不機嫌だった
おじさんは言った
特別あしらいですか
たいしたもんですなあ
きっとたいそう大事なものなんでしょう
いやいや…
たいしたもんですなあ…
突然おじさんは
すがたを消した
ぼくはおじさんが誉めてくれた
特別な色を本当は覚えていなかったから
おじさんがもう質問してこないとわかって
少しホッとした
そして自尊心の色を確かめようと
自尊心を探したけれど
それはずっとあそこのあれよりまだ遠く
何色にも分けられないまま
ぼくの背の届かないところにあった
