【テーマ・しゃかい】
映画は好きです。
学生のころはよく
ひとりで観に行きました。
数ある上映作品のなかから
学生にとっての大枚をはたいて
なにを観るかを決める基準は
宣伝で興味をひかれたとか
好きな俳優が出ているとか
いま思うと自分の気持ちでした。
たとえ作り話であっても
ホラーは絶対観ませんでした。
感動系の人間ドラマや
ヒッチコックのサスペンス
ミュージカルとか
そういうのが好きだったみたいです。
ときは21世紀に変わり
わたしがわたしの
主体性を見失ってからは
「観たい」という気持ちが封印され
それから観る映画は
一緒に観る相手次第で
どんなジャンルも観るようになり
アクションやB級SFや
スプラッタもの
パニックもの
何でもござれになりました。
いま振りかえってみて
わたしはそれらの映画を
こころから楽しめていたか
というと
そうでもなかったことに
気づきました。
激しいアクション映画は
こころを爽快にしてくれると
思い込んでいましたが
それはかえって
わたしのこころを重くさせていたことに
最近になって気がついたのです。
映画に限らず
小説やお芝居や
絵本や昔話やオペラやバレエは
観ているものを物語にひきこみ
わたしたちは肉体を置き去りにして
物語のなかに臨場感を味わいます。
それが醍醐味であり魅力であり
多くの物語が愛される理由でしょう。
疑似体験とはいえ
物語の中で見出だした
感動や恐怖といったこころの動きは
実体験のそれと
質的になんら
かわるところはないのです。
さて
映画や物語の中で
ひとが死んでしまうのは
珍しいことではありません。
むしろ
その死を取り扱うことで
観ているもののこころを
大きく揺さぶり
より大きな感動を生みます。
しかしそれはいつも
観ているものが感情移入できるような
物語の中核をなす登場人物の場合であって
わたしたちは知らず知らず
その物語のなかの
誰や何が重要で
誰が何が重要でないかを
区別するように操作されてしまう。
主人公の恋人や親友や家族が
死んでしまったり
殺されてしまったら
わたしたちは
主人公の怒りや悲しみを
わたしたち自身のこころをもって
痛烈に実感します。
ところが
カーチェイスに巻き込まれて
ぺしゃんこになった車の運転手や
敵地に乗り込んだ主人公に
あっさり殺されてしまう警備員や
名前も姿も印象に残らない
シナリオにさえ役名のない
多くの登場人物たちの死は
観ているわたしたちは
どう取り扱っているでしょう。
ストーリーを紡いでいくために
クライマックスでわたしたちが
より大きな感動を得るために
犠牲になっていった脇役のいのち。
着眼し囚われることを
それとなく禁じられている
名もない脇役のたちの
その死の役割を
どう取り扱っているでしょう。
そのことに考え及んだとき
わたしがアクションやSFを
こころから楽しめない理由が
わかった気がしました。
考えすぎとか
偽善的だとか
わたしのなかにそれを否定させる
いろいろな思いも浮かびますが
重要人物の死と
名もない脇役の死のあいだに
必然的かつ無意識的に
生まれでる差別があって
それが気がかりで仕方がないのです。
実生活において
わたしはわたしの人生の
主人公であり
またいつもそうあるように
生きていくのが望ましい。
けれども
同時にわたしは
ほかの誰かの人生の
名もない脇役であり
またそうでなければ
わたしの人生が成り立たない。
いつか訪れるわたしの死を
誰がどう扱うのか
なによりわたし自身がどう扱うのか
誰かの親友や家族として
多くのひとのこころを揺さぶりながら
死んでゆくのか
誰かの正義の犠牲として
名前も姿も印象に残らないまま
死んでゆくのか
気がかりで仕方がないのです。
誰よりもわたし自身が
わたしとわたし以外のいのちを
必然的かつ無意識的に
差別していることに
気づかされてしまうのです。
映画は好きです。
学生のころひとりで観た
観たくて観た映画も
ふわふわしながら観た
観たくはなかった映画も
いまもう一度観直せば
新しい気づきとともに
深い感慨があるのかもしれません。
脇役のいのちに寄り添って
いまもう一度観直せば
わたしのいのちも
見えてきそうな気がします。
映画は好きです。
学生のころはよく
ひとりで観に行きました。
数ある上映作品のなかから
学生にとっての大枚をはたいて
なにを観るかを決める基準は
宣伝で興味をひかれたとか
好きな俳優が出ているとか
いま思うと自分の気持ちでした。
たとえ作り話であっても
ホラーは絶対観ませんでした。
感動系の人間ドラマや
ヒッチコックのサスペンス
ミュージカルとか
そういうのが好きだったみたいです。
ときは21世紀に変わり
わたしがわたしの
主体性を見失ってからは
「観たい」という気持ちが封印され
それから観る映画は
一緒に観る相手次第で
どんなジャンルも観るようになり
アクションやB級SFや
スプラッタもの
パニックもの
何でもござれになりました。
いま振りかえってみて
わたしはそれらの映画を
こころから楽しめていたか
というと
そうでもなかったことに
気づきました。
激しいアクション映画は
こころを爽快にしてくれると
思い込んでいましたが
それはかえって
わたしのこころを重くさせていたことに
最近になって気がついたのです。
映画に限らず
小説やお芝居や
絵本や昔話やオペラやバレエは
観ているものを物語にひきこみ
わたしたちは肉体を置き去りにして
物語のなかに臨場感を味わいます。
それが醍醐味であり魅力であり
多くの物語が愛される理由でしょう。
疑似体験とはいえ
物語の中で見出だした
感動や恐怖といったこころの動きは
実体験のそれと
質的になんら
かわるところはないのです。
さて
映画や物語の中で
ひとが死んでしまうのは
珍しいことではありません。
むしろ
その死を取り扱うことで
観ているもののこころを
大きく揺さぶり
より大きな感動を生みます。
しかしそれはいつも
観ているものが感情移入できるような
物語の中核をなす登場人物の場合であって
わたしたちは知らず知らず
その物語のなかの
誰や何が重要で
誰が何が重要でないかを
区別するように操作されてしまう。
主人公の恋人や親友や家族が
死んでしまったり
殺されてしまったら
わたしたちは
主人公の怒りや悲しみを
わたしたち自身のこころをもって
痛烈に実感します。
ところが
カーチェイスに巻き込まれて
ぺしゃんこになった車の運転手や
敵地に乗り込んだ主人公に
あっさり殺されてしまう警備員や
名前も姿も印象に残らない
シナリオにさえ役名のない
多くの登場人物たちの死は
観ているわたしたちは
どう取り扱っているでしょう。
ストーリーを紡いでいくために
クライマックスでわたしたちが
より大きな感動を得るために
犠牲になっていった脇役のいのち。
着眼し囚われることを
それとなく禁じられている
名もない脇役のたちの
その死の役割を
どう取り扱っているでしょう。
そのことに考え及んだとき
わたしがアクションやSFを
こころから楽しめない理由が
わかった気がしました。
考えすぎとか
偽善的だとか
わたしのなかにそれを否定させる
いろいろな思いも浮かびますが
重要人物の死と
名もない脇役の死のあいだに
必然的かつ無意識的に
生まれでる差別があって
それが気がかりで仕方がないのです。
実生活において
わたしはわたしの人生の
主人公であり
またいつもそうあるように
生きていくのが望ましい。
けれども
同時にわたしは
ほかの誰かの人生の
名もない脇役であり
またそうでなければ
わたしの人生が成り立たない。
いつか訪れるわたしの死を
誰がどう扱うのか
なによりわたし自身がどう扱うのか
誰かの親友や家族として
多くのひとのこころを揺さぶりながら
死んでゆくのか
誰かの正義の犠牲として
名前も姿も印象に残らないまま
死んでゆくのか
気がかりで仕方がないのです。
誰よりもわたし自身が
わたしとわたし以外のいのちを
必然的かつ無意識的に
差別していることに
気づかされてしまうのです。
映画は好きです。
学生のころひとりで観た
観たくて観た映画も
ふわふわしながら観た
観たくはなかった映画も
いまもう一度観直せば
新しい気づきとともに
深い感慨があるのかもしれません。
脇役のいのちに寄り添って
いまもう一度観直せば
わたしのいのちも
見えてきそうな気がします。