卒業しない学校
少し放心していた間に
記事の編集画面も様変わり
つくづく
時の流れというものは
自身とそれ以外では異なるものだと
思い知る
わたしの停滞と関係なく
時は流れる
それが
物理を無視した単なる主観
思い込みであることも知っていてなお
違和感や苦痛をどうにかして
自分にとって理解不能な
どこか遠い世界の出来事に押しやろうと
している自分に
気づいていることさえも
今は他人事に思えている
冷たくなった風を頬で受けつつ
近頃では滅多見上げなくなった
その空を見れば経験から秋とわかる
上空を巡る強い風が
南から北へと儚い雲を
グイグイ押しやるのが見える
刻一刻と形相を変える
空色を眺めながら
自身の知を超えるものの全てを
なにか神のようなものの仕業のように
思おうとしている自分に気づく
通り一片の知識を持つ
現代人であるからには
イロイロ予測もつくであろうに
この世の全てが
なにか自身の手に負えないものの創った
箱庭であるかのように思うことで
ようやく今日の生をつなぐ
愚かなことだと思う
願わくばこの言葉が
物理の操る世界の風に乗って
どこかわたしの手に負えない
遠い遠いところへ
運ばれることを
わたしの知の及ばぬところで
想いが鎮魂することを
わがままな願いだと苦笑しつつ
灰色の秋の夕空に言葉を乗せたくなった
遅い午後だった
数年前に一度
断捨離と称して
わりとたくさんの不要品を捨てた。
それは今にして思えば
わたしにとって
捨てやすいものの処分で
明らかに壊れているとか
色あせて破けているとか
いつから持っていたか
まるで覚えがないとか
そういうモノの処分だった。
それでも当時は
袋に詰めてゴミに出すという
そういう行為そのものが
相当にキツかったのを覚えている。
片付いてスッキリするどころか
丸裸にされるような不安が募り
結局、巷で噂の「断捨離」の
ビフォーアフターのようには
ならなかった、なり得なかった。
部屋の整理はこころの整理という。
それはそうだと思う。
わたしには簡単ではなかったが
二度目の整理整頓は
一度目よりも心してかかった。
一度目に捨てやすいものを捨てて
もう捨てやすいものはあまり無かったから
捨てにくいものを捨てていくしかなかった。
その過程でいやでも
自分の過去と軌跡を
振り返ることになり
少しは断捨離っぽかったと思う。
それでもスッキリすることはなく
むしろ拭いたくても拭いきれない
過去へのこだわりや執着が
浮き彫りになる結果となった。
そしてこの春は三度目の正直。
べつに
こころを整理したいとか
運気を呼び込みたいとか
必要なものしか持たないとか
思ってない。
ただ、思い出まみれのものに
ずっとしがみついて
代謝を滞らせるのが
不自然だと思っただけだ。
わたしは生きているだけで
すでに思い出まみれ。
日々代謝し新しくなる細胞に生かされながら
わたしを保っているのは記憶なのだ。
抱えきれない記憶を
モノに垂れ流して閉じ込めて
劣化を待ってなんになるだろう。
美化を試みてなんになるだろう。
実際は
ひっくり返したクローゼットの前で
途方に暮れながらの作業だけど
思い出の品と呼んできたモノ達との
再会と別れの儀式なんだけど
いまはそれが自然な気がしている。
3月という季節にも
きっと助けられているんだろう。
【テーマ・さんすう】
朝、目覚めたときに
太陽の光が部屋にさしているとうれしい。
3月になり
すっかり日の出も早くなった。
冬と呼ばれる期間の長さは毎年
そうそう変わるわけではないから
経験としてもうすぐ春だということも
知識としてもうすぐ春だということも
わかっているように思うけれど
毎年のように、いや
毎日のように
感覚は春を、いや
今日という日を
まるで忘れていたかのように思い出す。
ああ、一日が始まっている。
ああ、春が近づいている、と。
その新鮮な気持ちは
わたしの全部が
そう長くは記憶を保ってはいないことを
密かに証明している。
昨日知っていたはずの一日の始まりも
去年知っていたはずの春の訪れも
なんということだろう
もうわたしは忘れていたのだ。
学生のころ
原点とは始まりのような感覚でいた。
座標(0,0)の点。
なんとなく出発点。
原点回帰なんていう言葉もあるけれど
いまのわたしにとって
原点とはなんだろう?
少なくとも始まりという感じはしない。
原点を中心に据えた円の円周は
プラスとマイナスの両方の値をとる。
たとえどんなに遠くまで来ようと
たとえどんなに高みに登ろうと
たとえどんなに負に堕ちていようと
原点はいつもわたしの中心にあって
帰るところというよりは
思い出すべき場所であるように思う。
なにしろ
そうそう長くは記憶しておけないのだ。
自分のほんとうに
中心にあるものの存在でさえも。

