以前から痛切に感じていることだけれど
何かこころの辺りにある形なきものを
どうにか言葉にして繰り出そうとするとき

他に形容しがたい苦痛がある。

その苦痛に耐えるだけの自信がないときや
果敢に挑戦してあえなく敗れたときは

形なきものは形なきもののまま
どこともなく浮遊なり沈殿なりして
いつしか落ち着くところに落ち着く。

だからあえて
辛いなら言葉になんかしなくてもいいと
放置することになる。

形なきものはたいてい
思いとか悩みとか
そんなふうに呼ばれるものであって

それらがこころの中を
こころを傷つけるかのようにモヤモヤと
不気味に蠢いていたとしても決して

たとえば虫歯の痛みを放置した時のような
明らかなリスクは直ちには襲ってこない。

もしもズキズキ痛むのが
こころではなく虫歯なら

治療の痛みや恐怖に対峙して
(恐れに打ち克てるかどうかはさておき)

観念して歯医者の冷たい治療用椅子に
大人しく座ることだろうと思う。

けれども

こころの痛みは
虫歯の痛みよりも

なぜか我慢できるような錯覚が起こりやすく

怖くて苦しい思いをして
思いや悩みをわざわざ口にしなくても

いつしか時間が解決するかのような
根拠のない楽観視ができてしまう。

言葉にする苦痛にすら耐えられないくせに
こころの痛みに耐えられるはずがなかろうに。



形なきこころの蠢きを
苦痛を承知で言葉にすることは
なにも誰かにわかってもらうためではない。

ほかの誰でもなく
一番自分をわかっていないであろう自分に
わかりやすく思いを示すためだ。

こころにも
思いにも
目に見える形などない。

耳に届く音の波形もありはしない。

要するに脳みそに対して
非常に認知しにくい状態にある。

かといって

思いを言葉にすることに対する
事前に保証されるメリットもない。

それでも

わからずやの脳みそに
電気信号を送るためには

わからずやの脳みそに
こころの痛みを教えてやるには

形なきものに
あたかも形であるかのような
おぼろげでも手触りのある
実態に近いものを与えるのが手っ取り早い。

それができるのが
わたしにとって、言葉。

バラバラになりがちな
こころと脳みそをつなぎ

バラバラになりがちな
自分のなかの自分たちを
つなぎとめる

大いなる力であるように思う。


そろそろ観念して椅子に座ろうと思う。

歯科医院の治療椅子でも
心地よいソファでもなく

かつて毎日腰を下ろしていた

学校の、あの椅子に。
買い物ひとつ
お店の中を何回も何回も
ぐるぐるとめぐり歩いて

ああ何年か前にも
こんなふうに
買い物に苦痛を感じたことが
あったなぁと思い出します。

何を買ったらいいのか
何を買いに来たのかも
なんだか分からなくなって

ぼーっとして
スーパーの混雑にすっかり
気圧されてしまって。

あのときと今とは少し違って
「どうしてこんなふうに
なってしまったんだろう」と
不安には思ってない。

そういう時期なんだなと
素直にあきらめることができる。

↑↑↑
あきらめる=明らめる
あきらめる≠諦める

きっとわたしは
その理由をわかってる。

もっと
書きたいことはあるのだけど

思うように言葉が出てこなくて

買い物で迷子みたくなるより
今は書けないことのほうが辛いかな。

書けるわたしが迷子。

はやくおうちに帰りたい。
ひとがなぜ夢を見るか
その理由は諸説あって
たぶんどれも本当のことと思います。

眠っているあいだも
わたしたちの体は生きていて
起きているあいだには
やりたくてもできないことを

粛々と行ってくれている。

考えてみれば
なんで夢なんか見るのだろうと
不思議に、あるいは訝しく
思うことはあっても

夢を見ることが自分に
どんな恩恵を与えているのかを
ちゃんと考えることは少ない。

諸説ある夢の理由のうち
わたしが気に入っているのは
夢は無意識を覗く窓ではないか
という考え方。

夢を夢として捉えずに
夢も現実の体験のひとつとして
ほかの記憶と区別せずに
自分の中に保管したいからです。

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明晰夢という言葉は
随分あとになってから知ったのですが

幼い頃から異様にハッキリとした
夢を見ることが多く
その気になれば夢の続きや
自分の見たい夢をある程度
自分の意思で見たり
途中で展開を変えることもできました。

夢だと気づいていても
事の顛末を見届けたいあまり
ドラマの一気見がやめられないように
夢の中に居座り続け

案の定寝坊して遅刻して
日常生活の妨げになることも
しばしばありました。

子どもの頃は
夢を現実に持ち込むことの負担も
軽々と抱えられるだけの純粋さや
無知という余白がまだ
わたしの中に十分残されていたのでしょう。

しかし時を追うにつれ
夢と現実を一緒くたにすることが
だんだん難しくなり

夢の理由や意味を
問うようになっていきました。

夢と現実を
分けて考えなければならないと
思うようになったのは
18歳くらいのころだったと思います。

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それでもしばらくは
夢の中で起こる様々な出来事を
現実のそれと同じように
記憶に留めておくクセは残り

夢の中で喧嘩した相手や
夢の中で殺してしまった相手と
現実で何食わぬ顔をして
付き合っていくうちに

だんだん苦しくなりました。

夢の中の自由奔放で逞しく
ときには空だって飛べるような
無敵の自分と現実の自分の

その差異も苦しく感じました。

徐々に夢はただの夢になり
明晰夢をみることは少なくなりました。

目が覚めてから夢だと気づき
夢の中で何もしなかった自分に
落胆と無力さを覚えるように
なりました。

昔はあんなにハッキリと
現実の事のように覚えていた夢を
だんだん覚えていられなくなり

ついには
夢をみていたのかどうかさえも
どうでもよくなっていきました。

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加齢に伴ってのことと思いますが
実際の現実についての記憶力も
ここのところ極端に衰えてきたと
痛感しています。

心当たりはいくつかあって
あんまり好きな言葉じゃないけれど
ストレスが原因だと思っています。

忘れてはいけない
大事な用事なのに

忘れていたことを思い出し
なぜ忘れていたんだろうと
愕然としたときに

なぜか

夢を忘れていたことを
恐ろしいほど後悔しました。

そのときに
わたしにとって
現実の記憶と夢の記憶は

分け隔てなく保管しなければ
夢を忘れるのと同じように
現実の記憶も失われていくのだと

なんとなく思いました。

なんの根拠もない
わたしの思い込みにしろ
わたしにとっては重要な
ひとつの摂理ともいうべき

マイルールなのでしょう。

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ここのところ寝てばかりいました。

眠りに落ちてから目覚めるまで
ずっと夢を見ているような気がします。

いままでの分を取り戻すかのように
細切れの夢を一晩にたくさん見ます。

眠りが浅いせいか
昼間もうたた寝してしまい
例外なく夢を見ます。

昔ほどではないけれど
わりとしっかり覚えています。

夢の中で夢を見たり
夢と知っててわざと目覚めないように
するときもあります。

仕事をやめて
それができる環境になったからとも
言えますが

これでもかというくらい
たくさんの夢を見て
若い頃よりもやっぱり
体力をつかいます・・・

起きたらぐったりしていて
ひと様からみたらあまり
良い状態とは言ってもらえないでしょう。

けれど
これからまだ
もう少し続くであろう人生を

意識も無意識も区別なく
自分のことを大切に生きようと思ったら

少なくともわたしには
怒涛のように押し寄せる夢の数々を
どれひとつないがしろにせずに

その理由と意味を問いながら
記憶に保管していくしかない

そんなふうに思っています。


また、夢を見られるようになってよかった。

誰にともなく
ごめんね、と
謝りたくなりました。