60年安保の象徴と言われた反戦民主学生闘士の樺美智子さんが機動隊に弾圧され亡くなってから64年の歳月が流れた。
反戦民主学生闘士樺美智子さん

 樺さんは1937年に東京都武蔵野町に生まれた。幼い頃より戦争や平和、貧富の格差などの社会問題に興味を持っていたと言われている。高校卒業後の1957年に東京大学文学部に進学し樺さんの将来は、約束されたも同然だった。

 しかし樺さんは学業に専念する余裕は無かった。当時日本は朝鮮戦争特需により経済成長していたが一方貧富の差は広がり戦争はより身近に迫っていた。

 樺さんは貧しい人々を救い戦争から平和と民主主義を守る為に1957年の11月、日本共産党に入党、共産党の学生機関の民主青年同盟にも参加し平和と民主主義の為、所謂(いわゆる)学生運動に身を投じていった。

 一方この頃日本政界では米ソ東西冷戦の激化から米国陣営内に属する日本では支配勢力を中心に米国との軍事関係強化が叫ばれていた。支配勢力は1954年に締結された日米安保条約(日米軍事同盟)を改正し日本に米国の軍事基地を増設し自衛隊に国家の防衛義務を課すことで日本人の命を米国に売り戦争出来る国にしようと企んでいた。
A級戦犯 岸信介首相

 1957年には元A級戦犯で右翼政治家の岸信介が首相に担ぎ上げられ日米安保改定が現実味を帯びてくると樺ら学生らは「安保改定絶対反対」「戦犯岸政府を打倒せよ」の大号令の下全学連(全国学生自治連合)による抗議運動が各地で行われた。樺さんも参加した。

 しかし平等な共産主義を目指すソ連等東側諸国の存在を恐れていた岸信介内閣は1958年には米国政府と安保改定の合意を結んだ。そしてその2年後の4月20日米に岸内閣は改定に反対し座り込みで抗議する野党社会党共産党の議員等を排除する為に岸首相は民主主義の象徴である議事堂に武装した機動隊を乱入させ抗議する野党政治家を排除したのだ。そして翌19日には参議院での採決を行わず安保改定を強行採決した。樺美智子さん含む学生達はこの岸内閣のファッショ的な野党弾圧と議会軽視の姿に戦前の軍部の面影を重ねた。樺さん達は安保改定を阻止する為国会議事堂前で抗議を続けていた。

 しかし強行採決の報が学生達に伝わるとなんとしても安保承認を阻止しなければならないという動きが広がった。戦後平和民衆国家となった日本を米国の国際戦略の為に売った稀代の売国ファシスト岸信介を打倒しようと民主学生が一気に立ち上がった。樺さん含む反戦平和の旗章を高々に掲げる学生達に野党人士や都市労働者も加わり抗議活動はますます大きくなった。樺さんはデモに参加し何度も警察に弾圧され逮捕されても挫けず戦い続けた。6月16日、樺さんは学生や野党人士、都市労働者のデモ隊を率い国会議事堂と首相官邸前に向かった。民主主義を破壊した岸内閣と戦争を望む支配勢力を打倒するためである。 そして岸首相の指示を受けた武装機動隊によりデモは弾圧され樺さんも殺害された。岸首相は暴力とリンチと弾圧により安保改定を自然承認させ更に平和憲法の改正まで主張するようになっていった。岸は安保改定により政権支持率が向上するとふんでいた。

 しかしそんな岸首相の思惑とは裏腹に樺さんの死により抗議は更に激化した。学生デモ隊により全国各地で樺美智子さんの追悼集会と樺さんを死に追いやった岸首相への抗議デモが行われた。
樺さんの死への抗議デモ

 樺さんの意志を引き継ぎ平和と民主主義の為に多くの人達が立ち上がった。学生、労働者、普通市民、野党人士が全国で決起し虐殺抗議、岸内閣打倒の狼煙を上げた。東京、大阪、名古屋、福岡といった主要都市で十数万人規模のデモが起きた。中には仕事の影響から抗議デモに参加できない人もいたが彼らもデモ隊との連帯を示しデモ隊に食料や水を買って差し入れた。

 首相の岸信介は、この市民や労働者の大規模な抗議デモに対して「デモ隊だけが国民の声ではない。自分は声なき声に耳を傾ける。後楽園はいつも満員だ。」と発言、これは、平和主義と民主主義の為に立ち上がった市民や学生を冒涜する発言だと各界から抗議の声が挙がった。また岸は樺さんの死に謝罪はおろか触れようともしなかった。その姿勢に更に強い批判が挙がった。全国各地で抗議の声があがり六月末には、全大学教授による抗議デモ、日教組ストに入った。そして民主市民、労働者、学生のデモ隊により議事堂と首相官邸が包囲され、7月19日、岸信介は首相を辞し退陣した。樺さんの死から僅か1ヶ月後の事だ。
樺さんの死後60周年の追悼集会
岸信介首相の孫、安倍晋三首相
 
 安保闘争から60年が過ぎた2020年6月、樺美智子さんの追悼集会が国会前で開かれた。当時の首相は、かつて安保改定で米国に国を売り戦争できる国を目指していた岸信介元首相の孫の安倍晋三だった。安倍首相もまた祖父同様、戦争できる国を目指し平和憲法の改正と議会民主政治の停止を目的とした緊急事態条項の設立に燃えていた。しかし森加計桜汚職に対する民主市民の抗議により2020年8月末に退陣に追い込んだ。安倍は首相辞任後、公職選挙法違反や公私混同などの容疑で刑事告発された。その後の統一教会系関連の事件で2022年7月8日に銃撃されその怪我が原因で死亡した。   
 
 樺さんの死は日本の平和と民主主義、自主独立の為の犠牲であった。我々日本国はこの混沌とした乱世の時代において樺さんの意志を引き継ぎ、国際社会の先頭に立って憲法9条の価値観である世界平和と民主主義を啓蒙しそしてそれを守っていかねばならない。