明後日9月11日は世界を震撼させた同時多発テロより23年目に当たる日だ。あのテロによりアフガニスタン、イラクの多くの方々が亡くなった。米軍の暴力的侵略に晒され打倒されたアフガニスタンのイスラム政権は2021年の反転攻勢で再び政権を掌握している。イラクでは米軍の侵略でフセイン政権が崩壊、現在も混乱が続いているが過激派組織は目に見えて弱体化しつつある。しかしやはりあのテロにより米国の軍国主義は増長したといっても過言ではない。


 自由と民主、博愛を掲げイラクのフセイン大統領やアフガニスタンのイスラーム政権をテロを先導する独裁政権と決めつけ侵略したブッシュjr大統領の蛮行はそれこそ戦時ドイツの独裁者ヒトラー総統と何も変わらないし世界中の人々も米国の蛮行に抗議した。


 しかし日本の小泉政権を筆頭に世界の自称保守派右派の人々はこの米国の侵略戦争を独裁打倒の解放戦争と讃え米国を独裁者の脅威から世界を守る守護神と呼び侵略戦争追従の姿勢を明確に示した。今でも保守や自由民主主義を自称する人達は米国こそが全世界的民主主義大国でありその米国に逆らう国こそ独裁国というレッテル貼りをする。こういう人達の頭の中では米国(自由民主主義)vs反米国(ロシア、イラン、中国)=独裁国家という図式が出来ているのだろう。果たして米国こそが完全な民主主義強国であり米国とその陣営以外の国は憎悪すべき独裁国家という認識が正しいのか、もう一つの9.11とも呼ばれる南米の事象を見ればそれが全く誤った認識である事がよく分かる。


 1959年のキューバ革命により平等と平和という価値観が中南米に広がっていきボリビア、ニカラグア(サンディニスタ革命)グアテマラ、コロンビア、エルサルバドル、ペルーなどに左派民主政権が続々と誕生していった。これらの政権は左派ではあったものの自由、民主、平和、平等、人民革命の信念を大切にし議会制民主主義を尊重していた。しかし米国はそれらの政権が反米を掲げていたことから目の敵にし政権転覆の為の政治介入などを増大させた。チリでも1970年11月に社会党のアジェンデが大統領に就任し対米自立を宣言していた。今の保守派達の反米=独裁の認識はこの時点で間違っていたと言える。米国はチリ社会党政権を転覆させるためにチリでも政治に介入していく。


ピノチェト将軍とアジェンデ大統領


 米国はチリ社会党とアジェンデ大統領に対抗するため犬猿の仲だった野党のチリ共和党とキリスト民主党の仲介役となり両党の野合を支援した。その際相当の議員をCIA(米国諜報機関)が買収している。更に米国CIAは大量の工作員を派遣し「もしアジェンデが大統領になったらチリのあらゆる物がソ連に奪われるぞ」や「アジェンデはソ連のスパイだ」「息子がマルクス主義者にやられた。アジェンデの仕業だ」といった迫真の演技をラジオに流した。しかしアジェンデ政権優位は変わらず議会選挙でもチリ共和党や民主党は大敗した。


 他の国々では政権転覆に成功したCIAも国民に愛されるアジェンデ大統領を転覆することは出来なかったのだ。そのような中、米国はなんとアジェンデ政権のチリに経済制裁をかけた。当然この暴挙は国際社会から激しい非難があがった。なぜならアジェンデ大統領は民主的なルールを破ってなかったしソ連のスパイでも共産主義者でもなかったからだ。しかし米国は過剰な反共感情に基づきアジェンデ政権のチリを攻撃した。チリの子供達が餓死しようがチリ国民の半数が栄養失調に陥ろうが御構い無しだった。


 そしてそのような状況下の1973年9月11日、いわゆるチリの9.11が突然おこった。9月軍事クーデターとも9.11軍事クーデターとも言われるこの軍隊の反乱によってアジェンデ大統領政権は打倒されアジェンデ大統領は炎上する大統領宮殿の炎の中に消えていった。


 軍事クーデターを主導したのはチリ国軍のチリ陸軍最高司令官、海軍最高司令官、空軍最高司令官、統合幕僚会議長などチリ国軍の首脳部いわば上級軍人達であった。既にチリ国軍上層部はアジェンデ大統領に見切りをつけておりその打倒を目指していたのだ。チリ国軍の兵士の中には当然アジェンデ大統領を支持するものは多数いたが厳格な将校間の上下関係が存在し上役の将校の口答えを禁止するチリ国軍において上官の命令を破る事は出来なかったのだ。


 その後チリ国軍は軍を中心とした軍事独裁に基づく臨時政府の樹立を発表した。臨時軍事独裁政府の首班には陸海空三軍の最高司令官が名乗りを上げていたが最終的に最年長という理由で陸軍最高司令官のピノチェト将軍が選ばれその後海空の最高司令官を兼任し独裁者としての基盤を固めた。


軍事政権を樹立したピノチェト将軍


 ピノチェト将軍は1973年10月にチリ社会党、共産党といった革新政党を非合法化し更にその後チリ共和党や民主党といった自由主義政党も非合法化、ピノチェト政権の翼賛政治団体であるチリ軍人国家評議会が議会独裁を敷いた。そして1974年12月に正式に大統領に就任すると共産主義者や進歩的知識人を徹底的に弾圧した。


 まず最初に進歩的知識人やマルクス主義経済学者をチリスタジアムに収容しいっせいに処刑した。他にも左派的とされた書物を焚書に処した。焚書にされた書物はマルクス主義以外にもパブロ・ネルーダ、フランソワ・カフカ、マクシム・ゴーリキー、ジークムント・フロイトなど多岐に及んだ。更に軍事政権は残虐な弾圧にも手を染めていた。ヘリコプターの処刑部隊を組織し民主派の市民をヘリコプターに乗せ上空まで上りそこから先が尖った山脈に市民を落下させて処刑する「死のキャラバン」と呼ばれる処刑方法が採用されていたのだ。軍事政権に反対する学生は学生という事から命は奪われなかったものの軍への懲罰入隊が義務付けられそこで激しい拷問にあい心身を破壊された。

 

 国連はチリの軍事独裁政権に対して何度も非難決議を採択したし世界中でチリの民主化を支持する声が寄せられたが現在保守派や自称自由民主主義者が民主主義大国と崇める米国はピノチェト政権にどのように向き合ったのか?


 米国は表向きはチリの軍事クーデター及び軍事独裁を非難したが経済制裁はかけずそれどころか1975年頃より秘密裏に資金や軍事物資の援助が行われていたと言われている。それらの支援がチリ軍事独裁政権の民主化弾圧に使用されていたことは容易に想像がつく。米国は国際社会や国連がなにを言おうがチリの軍事独裁政権がどれ程残虐な民主化弾圧を行っていようが共産主義者よりはマシという理由で全て肯定していた。その結果チリでは何万人もの国民が軍事政権下で命を奪われたと言われている。


 1989年ベルリンの壁崩壊により東西冷戦が終結した結果米国は無理に共産主義と戦わなくてよくなったこともあり米国からチリの軍事政権への秘密裏の支援は停止された。その結果チリ政府軍は民主派市民の暴動を抑えられなくなり1990年3月に20年近い長期政権を確立していたピノチェト将軍が大統領から辞任した。チリの軍事政権の黒幕が誰なのかを如実に表した出来事だった。しかしチリでは長年の軍事政権下の弾圧もあって左派勢力は衰退しておりまたピノチェト将軍は大統領からは退いたものの陸海空三軍最高司令官と終身上院議員の地位は保持しており政界、軍事共に影響力は未だ健在だった。民主化後もミニクーデターを引き起こし左派勢力と軍部の衝突が頻発した。チリが完全な民主化を成し遂げるのは2000年代になってからである。


大統領退任後も影響力を保持したピノチェト氏


 さて米国はチリの国民に民主主義大国と見られているのだろうか?民主化後チリ軍事政権打倒を記念するドラマがチリ国営テレビで放送されたがそこでは米国は新自由主義と独裁を南米に持ち込んだ悪の帝国として描かれている。