2/8(水)の練習での、津田先生からのお話をお伝えします。

 

【マニフィカトの改訂】 
 
1733年頃、バッハは自身の権利要求の為、ライプツィヒ参議会との関係を悪くしていたので、ドレスデンのザクセン選帝侯の宮廷作曲家の地位を得ようとしていた。 当時のザクセン選帝侯F.アウグスト1世は、ポーランド王位を得るためプロテスタントからカトリックに改宗していた。 
1733年、F.アウグスト1世が逝去し、F.アウグスト2世が選帝侯位を継承した。 この喪の期間にバッハはカトリック典礼の為の、「ミサ曲 ロ短調」BWV232の前半部を作曲し、更に自身が1723年に作曲した「マニフィカト」BWV243aの改訂も行った。そしてアウグスト侯に献呈したと考えられる。 
丁度1733年に、バッハの長男フリーデマンはドレスデンの教会オルガニストに就任しており、バッハは幾度となく彼の地を訪れた。その際、ゼレンカとも交流を持ったと言われている。 
その後、バッハは1736年に念願のザクセンの「宮廷作曲家」の称号を得ることが出来た。