
グアテマラの独裁者エフライン・リオス・モント
【生年月日】
1926年6月16日〜2018年4月1日
【独裁期間】
1982年3月18日〜1983年8月10日
1.はじめに
中南米に位置する共和制国家のグアテマラ。我々日本人にとってコーヒーで有名であるもののどういった国かを知っている人は少ない。この国は多民族国家で尚且つ1960年から1996年までの30年間軍事独裁政権と反政府武装組織による戦争「グアテマラ内戦」が勃発した。
このグアテマラ内戦の影響で今も非常に治安が悪く、女性の観光客などは1人で外出する事が非常に困難だという。そして何よりも特筆すべき点は民族対立の問題である。未だにグアテマラでは根深い民族対立を抱えている。その背景は1983年のイシル族の虐殺にある。
そして先住民族のイシル族に対する虐殺とジェノサイド(民族浄化)を主導した当時の軍事独裁政権の指導者こそ今回の主役エフライン・リオス・モント将軍である。
2.グアテマラの背景
1800年以降、中南米ではスペインやポルトガルの植民地支配から脱し、独立して自分達の国を作ろうという動きが活発化。グアテマラもそういった動きに大きく影響されていき大規模な独立革命を引き起こし独立する。
しかしグアテマラでは1839年の建国以降、政局は混乱。中央アメリカ連邦からグアテマラを独立させたラファエル・カレーラ大統領は自らを独立の英雄と崇めさせ、終身大統領に就任、そして自らカレーラ1世として絶対君主(カウディージョ)に即位し、1865年頃まで同国に君臨。

グアテマラの絶対君主(カウディージョ)のカレーラ1世
カレーラ1世の死後、一応議会制民主主義と公職選挙制度が確立。また議会では保守党と自由党の二大政党制が成立し、国は民主主義への向かっていくものと思われた。
しかし1890年代保守党政権の腐敗から自由党が政権を樹立。自由党のエストラーダ・カブレーラ政権が発足。カブレーラは自由主義改革を推し進め、絶対君主(カウディージョ)制を廃止し共和制を導入(自由主義革命)。道路や鉄道の敷設などのインフラ整備や子供の教育の強化など進歩的な政策を推し進めるも次第に独裁化。
政権の主要メンバーを一族で固めたり、野党保守党の政治家らを捕まえて見せしめに拷問にかけたりとその手法は極端なやり方で多くの人々が殺害されていった。


エストラーダ・カブレーラ大統領
最終的にカブレーラ大統領は自身の誕生日や自身の母親の誕生日を国の祝日にするなど常軌を逸した神格化と個人崇拝を推し進めた結果、1923年に政権を追われる。
カブレーラ独裁政権の崩壊の3年後の1926年に今回の主役リオス・モントが生まれた。彼が生まれるまでのグアテマラは君主制、革命、共和制、そして独裁政権と目まぐるしく政治情勢が変動しており、これはリオス・モントの誕生後も決して変わることはなかった。
クーデターが繰り返され、1930年には再び大規模な軍事クーデターが発生。自ら「南米のムッソリーニ」と自称するホルヘ・ウビコ将軍によってファシズム独裁政権が樹立されるも1944年に「グアテマラ革命」で退陣。
1944年からは「グアテマラの春」と呼ばれる自由民主主義の時代に入った。1951年に政権を樹立したハコボ・グスマン大統領は更なる自由主義・民主主義改革を進めていく。
しかしそう上手く政治はいかず1954年には再び軍事クーデターが発生。以後グアテマラは軍事クーデターが頻繁に発生し、不安定な政権となっていき、米国とソ連の東西冷戦の影響もあって1960年には共産主義系の反政府武装組織が結成され、政府軍との内戦にまで発展(グアテマラ内戦)。30年以上に渡る戦乱の始まりとなる。
3.輝かしい軍歴と共産主義への弾圧
リオス・モントは1943年に17歳の若さで国軍に入隊。3年頃の1946年には陸軍士官学校に入学し首席で卒業。その後は他のエリート陸軍将校らと共に米国に留学。米軍との共同軍事訓練に参加し、その軍事技術を学んだ。この時にリオス・モントは米軍将校らを介して米国の上層部との政治的関係を持ったとされている。
その後リオス・モントはグアテマラに帰国して陸軍将校養成アカデミーの職員として働き、同アカデミーの校長にまで昇り詰めた。そして史上最年少で陸軍准将に就任。
そしてリオス・モントは1973年にカルロス・マヌエル・アラナ大統領の政権下で陸軍参謀総長に任命される。当時は共産主義系の反政府武装組織との内戦状態となっており、米国との関係の深いモントは適役だった。
モントは陸軍参謀総長として共産主義武装組織との戦闘に着手。モントは武装組織の戦闘員だけでなく民間の共産主義者まで容赦なく攻撃し、弾圧したためアラナ大統領はますますモントを信用し、彼に権力を与えていった。
4.サンシリサイ虐殺事件への関与
モントは共産主義者だけでなく先住民族への攻撃にも関与した。1973年5月にモントは先住民ポコマム民族がよく暮らすサンシリサイに治安部隊と憲兵を派遣。
そしてポコマム民族を筆舌に尽くしがたい残虐非道な方法で粛清していった。カトリック教徒であったモントは異教徒である先住民を見下していた。ポコマム民族への虐殺は夜間に行われ17人が死亡、100名が重傷を負った。

ポコマム民族の子供達
ポコマム民族の人達は陸軍参謀総長リオス・モントを虐殺の首謀者として政府に訴え出たが、反共産主義のアラナ大統領は「先住民集落が共産主義反政府武装組織の拠点となっている」と主張し、モントの軍事行動は武装組織から国を守る為の行動と全面的に擁護した。
カトリックの熱心な信者でもあるリオス・モントにとって聖霊信仰を主とする先住民の異教徒の命などハエの命よりも軽いのだろう。その後も先住民の人達は共産主義者らと共に政権による激しい迫害と弾圧を受ける事になる。
5.軍事独裁政権の樹立
1978年アラナ大統領が退陣後、野党指導者のルカス・ガルシア大統領が新たな大統領に就任した。ガルシア大統領はグアテマラ内戦の終結を掲げ共産主義反政府武装組織との交渉を行い、また共産主義者の選挙参加も認めた。
この動きに危機感を感じたのが自由主義陣営の本丸の米国である。米国の裏庭とされる地域には共産主義勢力が拡大していた。キューバでは革命により共産主義政権が樹立、チリには社会主義のアジェンデ政権が、そしてニカラグアでは1949年のニカラグア革命でソモサ王朝が崩壊し、左派色の強い政権となっていた。

ルカス・ガルシア大統領
もしこのままガルシア大統領の政権が共産主義反政府武装組織と交渉を行い、共産党の選挙参加を認めればグアテマラも社会主義・共産主義の国になるのではないか?米国の政治家達は「ドミノ理論(ある国で共産革命が起こるとドミノが倒れるように周辺国も共産化するという説)」が中南米で発生する事を非常に恐れた。
米国はクーデターで反共産主義政権を樹立させる計画を練るようになった。白羽の矢が立ったのが頑強な反共産主義者であり、カトリック教徒、更に米国への留学経験もある親米派軍人であるリオス・モントだった。
米国CIAと接触したモントは当初「軍事クーデターは国を不安定化させ、共産主義勢力を増長させる」とクーデターに反対的だったが、ガルシア大統領の内戦終結に向けた和平案が共産主義武装勢力に有利な物だと分かるとガルシア政権への不満を抱くようになり最終的に米国による軍事クーデター計画に参加する事となる。

軍事クーデター時 中央がリオス・モント将軍
そして1982年3月、ガルシア大統領の不正選挙を口実に大規模な軍事クーデターを決行。その後モントを首席とする3人の陸軍司令官が参加する軍事独裁政権の最高機関の陸軍3頭評議会が設置されモントが国家主席に選出される。
ガルシア大統領をはじめとした旧政権メンバーは逮捕されるか国外亡命するかでグアテマラ内部から完全に一掃。また共産主義武装勢力との交渉も白紙に戻した。
米国のロナルド・レーガン大統領は表向きグアテマラの軍事クーデターに対し、「深刻な懸念」「民主主義の回復を強く望む」と表明したものの水面下では米国CIAを介してモント軍事独裁政権への経済的軍事的支援が行われた。

自己クーデター(第2クーデター)を起こしたモント将軍
その後1982年6月にリオス・モントは自己クーデター(第2クーデター)を起こし、陸軍3頭評議会のモント以外の他の2人を排除、グアテマラ全土に非常戒厳令を布告。憲法や議会、政党の機能を停止させグアテマラは一夜で独裁国となった。
6.大量虐殺とローマ教皇による叱責
国家の全権を掌握したモントは再び共産主義反政府武装組織への攻勢を開始した。反政府武装組織のある構成員は「モント将軍による攻撃は苛烈を極め、国軍に捕まればまず命は無かった」と語る程の苛烈ぶりだった。
約36年続いたグアテマラ内戦だが、その死者はモントが政権を掌握していた1982〜1983年に集中する。実に20万人以上の国民がモント政権下で処刑・殺害されたと言われる。
特にモント政権が力を入れたのがマヤ系住民への徹底的なまでの民族浄化(ジェノサイド)であった。ポコマム民族やイシル民族への組織的なジェノサイドを行った。あまりの苛烈ぶりから先住民達は自ら軍人の前に来て金を渡し「逮捕で済まさてくれ」と願い出る程だった。
1983年3月ローマ教皇のヨハネ・パウロ2世はグアテマラ訪問の1週間前、モントに対して「軍事独裁を緩め民主的な政治をして欲しい。そして死刑を宣告された反政府ゲリラ構成員6人を釈放して欲しい」とモントに頼んだ。

ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世
しかしカトリック教徒であるにも関わらずモントはローマ教皇の命令に従わず、教皇来訪の三日前に反政府ゲリラ6人全員を銃殺刑に処した。これに激怒したローマ教皇はモントをカトリックから破門する事を決定。
これに対する報復かは知らないがモントは1983年春から「教会が共産ゲリラや先住民の武装組織を匿っている」と主張し、各地のカトリック教会を放火、礼拝所や修道院から財産を没収した上でガソリンをかけて焼き払うなど信長の比叡山焼き討ちの比ではない程の宗教弾圧を行った。
カトリックの司祭や修道女らは軍事独裁政権の弾圧から逃れる為、メキシコやベリーズといった近隣諸国に命がけで亡命した。国民の90%がカトリックとされるグアテマラ。先住民族や共産主義者への弾圧では飽き足らず、カトリックにまで手を出したモント将軍の軍事独裁政権に対し、国民の間では次第に不満が蓄積されていった。
7.大統領の辞任と軍事独裁政権の崩壊
そんな中1983年夏頃からは市民達によるモント将軍の軍事独裁政権への退陣と戒厳令の撤廃を要求デモするが公然と起きるようになる。モント将軍はデモの武力鎮圧を軍に命じたが、軍部もこれ以上の市民弾圧は難しいと判断し、モントに対し大統領の辞任を要求した。
同年8月10日、モントは大統領からの辞任を表明した。彼が大統領を務めたのは僅か1年5カ月だが、そのたった1年5カ月の間に30 万人の国民が殺害されたという。しかもあくまで分かっている範囲内で30万人であり、実際はもっと多くの国民が犠牲となっている可能性まであるというのだから驚きだ。
しかしモントは大統領辞任後も軍人大統領を立てて裏から操り、実権を握り続けた。彼は傀儡大統領として軍人ウンベルト・メヒア・ビクトレスを任命し、院政を敷いた。

軍人大統領ウンベルト・メヒア(モントの傀儡だった)
しかし傀儡大統領のメヒア将軍の政権も1986年に崩壊し、実権を握るモント将軍も失脚に追い込まれた。1990年には「民主化宣言」が出され軍事独裁政権が崩壊。そしてその6年後に「グアテマラ内戦終結宣言」が出された。
モントは焦った。このままでは民間人虐殺の容疑で逮捕される恐れもあった為だ。彼は政党を結党し、TV局や大手新聞を買収し自身に有利な情報を流し、何度か大統領選挙に出馬したが公民権剥奪により出馬困難となった。
8.戦争犯罪とジェノサイドの裁判
21世紀に入ると軍事独裁政権下で行われた先住民族へのジェノサイドやグアテマラ内戦時の政府軍による戦争犯罪に対する責任を追及する声が拡大。当事者のモント将軍に対する責任追及の声も当然拡大していった。
だがモントはこれらの主張を「とんだ茶番劇だ」と一笑。モントがこれだけの余裕ぶりを見せるのには意味がある。それは時効制度だ。どれ程市民団体や被害者団体が叫んでも独裁政権崩壊から30年以上経っている為、法を遡及してまで責任追及する事は出来なかった。
しかし市民団体や被害者団体の抗議デモの拡大を重く見た時の政権は、「軍事独裁政権下で行われた人権侵害や先住民への民族浄化には時効は適応しない」と宣言。事実上の法の遡及を行い、軍政指導者らの追及を合法とした。
これにより2009年戦争犯罪とジェノサイドの容疑でグアテマラ特設裁判所はモントの逮捕状を請求した。モントは逮捕を逃れる為に免責特権を有する国会議員の選挙に出馬したが、世論の反発も相まって僅差で落選。

戦争犯罪裁判で無罪を主張するリオス・モント
これによりモントの免責特権も失効し、2012年モントは他の軍事独裁政権の指導者らと共に戦争犯罪とジェノサイドの容疑で逮捕起訴された。被害者団体らはモントの死刑を求刑したが、モントは責任を全面的に否定。
戦争犯罪裁判でモントは被害者団体と特別裁判官と激しい舌戦を繰り広げたが、先住民へのジェノサイドや降伏して捕虜となった敵兵の処刑は例えゲリラでも国際法違反であるとの判決が下りモントは改めて刑事訴追された。

判決を聞くリオス・モント 彼は判決時笑っていた
その後モントは戦争犯罪、先住民へのジェノサイドの容疑で有罪判決を受け、事実上の終身刑である「禁錮80年」の判決を受け、グアテマラ国立刑務所に収監された。
その後市民団体や先住民団体を中心により重刑にすべきとの抗議デモが起きるも禁錮80年の判決が確定。老齢を理由に一次的な釈放を許された後、2018年に自宅で死去した。
現在のグアテマラへの影響
リオス・モントの評価は今なおグアテマラでは定まらない。彼がクーデターを起こさなければ内戦はより早く終結していた可能性もあり、また彼が行ったジェノサイドや反政府派への残虐な処刑はポル・ポトやピノチェトなどの外国の独裁者達と比較される事が多い。

モントの娘で国会議員のリス・モント
一方でモント政権下でグアテマラは劇的に治安が改善したという評価もある。共産主義ゲリラの中にはマフィアのように麻薬取引や身代金目的の誘拐を行う者もいた為、ゲリラに厳しい姿勢で望んだモントを評価する市民も多くはないものの一定数存在する。彼の娘スリ・リオスはそれらの市民の支援を受け、国会議員となっている。
