ヤヤ・ジャメ大統領


【生年月日】

1965年5月25日〜存命

【独裁期間】

1994年7月22日〜2017年1月22日



1.はじめに

 ヤヤ(ヤヒヤ)・ジャメはガンビア王国の独立直後の1965年5月25日、ガンビア王国のカニライ市の遊牧民族であるディオラ民族の小作農家の貧しい家に生まれた。

 ジャメのような貧しい地方部族の人間にとって中央で出世する道は軍人になる事だけだった。彼は1981年に軍人養成学校に入学し、1984年4月に高度な訓練を終え国家憲兵隊(現在のガンビア国軍の前身)に入隊した。

 ジャメはその後、内戦が続くリベリアに「ガンビア平和維持部隊」として派遣され、アメリカ合衆国のジョージア州での戦闘訓練に参加するなど軍務を遂行していた。


2.軍事クーデターで政権簒奪

 ガンビア王国は1965年2月に独立して以降、政情は安定。1970年4月24日に君主制が廃止され共和制に移行する出来事も起きたが英国の影響の元、経済情勢は安定。

 多くのアフリカ諸国で独裁制が敷かれたり、内戦になったり軍事クーデターが起きたりと政情不安に陥る中でガンビアは民主制を維持し、英国をはじめとする欧州諸国と友好関係を築き経済も安定していた先進国だった。これは西アフリカ諸国では稀な例だった。
ダウダ・ジャワラ大統領

 一方でダウダ・ジャワラ大統領の親英&親米政策やキリスト教徒を重視する政策に対し、軍内部では不満も高まっていった。軍人だったジャメもジャワラ政権の親英&親米政策に強い不満を持っていた軍人の一人だった。

 1981年には軍事クーデターが発生し、一時的にクコイ・サニャン将軍による軍事独裁政権が敷かれたが、セネガル軍の軍事介入によりクーデターは失敗していた。

 その為、ジャワラ大統領は「もう軍事クーデターは起きないだろう」と考えていた。その考えが甘かった。1994年7月ジャメ中尉の主動きより軍事クーデターが発生。ジャワラ大統領は国外亡命し政権は崩壊した。
クーデターを宣言するジャメ

 その翌日にジャメはTV演説し、ガンビアの憲法や議会の効力を停止し、「軍事暫定統治評議会(AFPRC)」を新たな行政機関と置くことを宣言。ここに西アフリカ唯一の民主制を敷くガンビアの民主主義が終焉。同国は軍部によって支配される独裁制の国へと移行する事となる。

 軍事クーデター後、ジャメは自身のクーデターに対するデモや抗議参加者らを片っ端から拘束し、刑務所へと移送。それらの抗議者らが生きて娑婆(しゃば)に出る事は無かった。彼はこういった暴力的なやり方で国民に対し、自分の権力を誇示した。


3.個人崇拝と知識人粛清

 求心力を得るためにジャメが真っ先に行った政策が自身に対する神格化政策だった。彼は自らを「バビリ・マンサ(全ての困難を取り払う全知全能の王)」やイスラム教の僧侶の最高尊称である「シェイク・アルハジ」と名乗り、更にそれらの称号を自分の名前に加えた。
 
 国内の至る所に自分の銅像や肖像画を設置。更に通貨や切手にも自分の写真を刻むなど、絵に描いたような独裁政治を展開、国のあらゆる財や美女を私物化した。
ジャメの肖像画が描かれた記念切手

 しかしジャメの個人崇拝に対し、ガンビア全土で教員や医者、大学教授といった知識人が反対した。これに対しジャメは自身を批判した知識人を精神障害者として扱い強制収容施設に閉じ込め拷問し餓死させた。これによりガンビアは多くの知識人を失った。更に国際社会からの信用をも失う事となった。

 更にジャメは民主制時代に廃止された死刑制度を復活させ、自身直属の暗殺部隊「ジャングラーズ」を利用し、ジャーナリストや市民活動家、野党政治家といったジャメの敵となる知識人を次々に殺戮していった。


4.常軌を逸したエイズ対策

 かつて西アフリカ唯一の先進国と言われていたガンビアはジャメが執権してから坂から転げ落ちるような速度で転落。医療福祉体制は崩壊し、エイズが流行した。

 特に2000年以降、急激な速度で広がり続け、パンデミックとなった。国際NGOなどが最先端医療を届ける為、多くの医療キットや予防接種などがガンビアに送られたがそれが国民の手に届く事は無かった。そうそれらは全て政府により外国に売り払われており、そのお金はジャメの手に渡っていたのだ。国民がエイズ感染に苦しむ中でジャメは国内外に豪邸を建てて悠々自適な生活を送っていた。

 そして国民に対しては「ヨーロッパの白人どもに頼らずとも私の秘薬を飲めばエイズは治る」と豪語した。その秘薬というのはバナナとハーブと酒を混ぜた物だった。当然そんなものでエイズが治るわけでもなく事態は更に悪化。
軍事パレードを閲兵するジャメ
 
 するとジャメは「今のこのエイズ感染の混乱を引き起こしているのは全部ゲイのクソ野郎のせいだ」と主張し、LGBTQなどの性的少数者らを迫害。同性婚や同性愛行為を非合法化し、少しでもそれらの行為に及んだ者は容赦なく処刑された。また暗殺部隊「ジャングラーズ」を利用した弾圧も行った。

 もちろんバナナとハーブと酒を混ぜた薬を飲ませようが、LGBTQといった性的少数者を弾圧しようが、エイズ感染と流行を抑えられる筈が無かった。しかしガンビア国営TVはエイズ感染は収束されたと主張し、ジャメに対し「偉大なる治療者ジャメ博士」と称賛した。


5.叔母の死と魔女狩り

 そんな中、ジャメの叔母が突然病死する事件が発生した。ジャメはこの叔母となんと恋愛関係にあった。愛する叔母の死についてジャメはその後の会議で「これは魔女に違いない。これは魔女の仕業に決まっている」と主張。軍や警察、自身直属の暗殺部隊ジャングラーズに対し、疑わしい女を●刑するか拷問するよう命じた。いわゆる魔女狩りである。
演説するジャメ

 この魔女狩りは都市だろうが田舎だろうが、時間を問わず徹底的に行われた。人々の中にはあまりの恐怖に町民全員で国外逃亡し、ゴーストタウン化するような村まで現れた。魔女狩りを批判した野党政治家は収監された。


6.政権崩壊

 このようにまるで「無敵の人」が大統領になってしまったかのような政治をジャメが行ったせいでかつて西アフリカ唯一の先進国と言われたガンビアは見る影も無かった。

 ジャメ政権以降、ガンビアは医療、教育、福祉、電気、インフラの全てが崩壊寸前でそれを立て直す知識人も粛清され、世界でも指折りの貧困国に転落していった。
中華民国(台湾)の馬英九総統とジャメ

 ジャメ政権に対する国際社会からの批判は相次いだ。米国や英国、フランスなどがジャメ政権を激しく批判するとジャメは「西欧の白人どもと完全に決別する」と宣言。ロシアや中国と密接な関係を築いていった。ガンビアはアフリカでは数少ない🇹🇼中華民国(台湾)と国交を結ぶ国だったが、これを気に2016年3月に台湾との国交を断交し🇨🇳中国と国交を結んだ。

 しかし国内では民主化を求める野党や市民による暴動が発生。2016年12月に民主的な大統領選挙を実施するも野党候補に大敗。するとジャメは軍を利用し勝利した大統領候補を排除しようとした。しかし周辺国が軍事介入を示唆するとジャメは赤道ギニアに事実上亡命した。これにより23年に及ぶジャメの独裁政権は崩壊した。


〜現在のジャメの評価〜

 ジャメの国外亡命後、彼の政権下で行われた収賄や巨額の不正蓄財が明らかとなり、また前述の暴政も相まって現在のジャメの政治評価は非常に低くなっている。

 また魔女狩りという中世ヨーロッパの刑事制度を導入し、自国民を無差別に●刑した事件は全世界を震撼させ独裁政権の恐ろしさを改めて世界に広めたといえる。

 一方で「ジャメは欧米の帝国主義から本当の意味でガンビアを独立させた」と考える支持者も一定数存在しており、ヒトラーのように全面的に否定されている訳ではない。