私は母とのやり取りのあと、夫のいる仕事のない土日は寝込むことが多くなっていた。頭の中であのやりとりが何回もフラッシュバックしていた。

そんなある週末に、県外に住んでいる姉家族が実家に遊びにやって来た。いつもなら、姉家族の帰省に合わせて私たち家族も実家に遊びに行く。今回も姉から前もって連絡があっていた。母と会うのはあのやりとりの日以来になる。夫はいつものように私の実家に行くつもりだった。私もそのつもり、いやそうしないといけないと思っていた。

また週末になると動けずに布団に横になっていた私は、実家に向かう時間になる頃にはガタガタ震え出していた。熱が出ていた。

姉家族が来ていたので、夫は心配していたが娘を連れて2人で私の実家に行ってくれた。2人が出かけ、1人になった私は、母に会わずに済んだことにホッとしていた。夫と娘が帰って来る頃には、あの体調不良が嘘のように起き上がって2人を出迎えることができていた。夫が言うには、私が来ないことを伝えても母の様子はいつもと同じで何ら変わりはなかったそうだ。ただ、私が大学進学の時に借りた奨学金の返済を手伝いましょうかと姉家族の前で言われたそうだ。そういえば、姉よりも多くの額の奨学金を私は借りていて、あのやりとりのときにもその話をした。それを気にしたのか。だか、姉家族の前で旦那に言うという、デリカシーのなさにまた時が一瞬止まった。

姉家族は私が体調不良だと聞いて、後から我が家に寄って顔を見せに来てくれた。姉とそのときに少し話をしたが、母とのことは伝えなかった。久しぶりに実家に帰って来た姉にする話ではないと思ったし、そんな話を母のお気に入りの姉にしてしてまた惨めな思いをするのは嫌だった。ただ、母から何か言われていたのか「実家が近いからお母さんに子どもの面倒を見てもらえていいね。」と言われ苦笑いしたことだけ覚えている。


母に私の娘と姉の娘を比較するのを辞めて欲しいと言った返答は、ニヤニヤしながら「何ムキになってるの?」だった。

私は、そのとき一瞬時が止まったように感じた。目の前の母が、よく知っている人なのに話の通じない外国人のような気分。

私は理解してもらわないといけないと、1番辛かった思い出、延長保育のお迎えのことを話した。いつも私のお迎えは園で最後だったこと。それよりも辛かったのは、私よりも先にいつも姉から迎えに行っていたこと。

「だって、お姉ちゃんの保育園の方が家から遠かったから」母は顔色一つ変えずそう言った。

私が、「たまには私を先に迎えに来てくれても良かったんじゃないか」と泣きながら言ったときには、

「あんたは何を言わせたいの!親が子どもに謝る必要なんかないんだ!」と母は声を荒げた。

その言葉を聞いた私は、これ以上話し合っても仕方がないと実感し、肩から力が抜けて話し合う気力もなくなっていた。



私は娘を0歳児から保育園に預けていた。仕事の繁忙期の月末から月初めは残業する日もあり、お迎えが閉園のギリギリになることもあった。日が暮れて辺りは真っ暗なのだが、延長保育のクラスの部屋の明かりは遠くから分かるくらいとても眩しい。このお迎えが私にはとても辛い。娘は嬉しそうに私の元によってくるのに、私はいつも鼓動が早くなって涙が出そうになるのを堪えて作り笑いをする。私は、目の前の娘に昔の自分を重ねていたのだ。

私の両親も共働きで、私と3つ上の姉も保育園に預けられていた。保育園に通っている間に我が家は引っ越しをしたのだが、姉は前の家に近い保育園で卒園させてあげたいと私だけ転園した。

そしてその頃、お迎えはいつも最後だった。みんなが親が迎えに来て帰って行く中、私は本を読むかお絵描きをしていた。友達と遊んでいても、私より皆早く親が迎えに来る。目の前で見るのは辛いから、お迎えの様子を見ないで済むように本を読んだり絵を描いたりして下を向いていた。

母は迎えに来ると先生へ挨拶をし、すぐ私を急かして急足で車に戻る。辺りは真っ暗だが、保育園の駐車場に泊まっている我が家の車の車内灯が明るくてそこだけ眩しい。母と私がやってくるのを車の中から見ている姉の顔がはっきり見える。「お姉ちゃんが1人で待っているんだから急いで」これがお迎えのときの母の常套句だった。

お迎えが最後の方の時間になると、保育園の先生がよく側に居てくれた。あるとき、いつも側にいてくれる保育園の先生が、最後に迎えに来た母に「もう少し早くお迎えに来れませんか?」と言ってくれた。私のお迎えまでの様子をみかねて言ってくれたのだと思う。母は、お迎えが遅いことが保育園に迷惑がかかっていると思ったのか、しきりにその先生に謝っていた。そのやりとりが終わると、またいつものように私を急かして車に戻るのだった。