本能寺の変(ほんのうじのへん)は、天正10年6月2日(ユリウス暦では1582年6月21日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1582年7月1日)、織田信長の家臣明智光秀が謀反を起こし、京都・本能寺に宿泊していた主君信長を襲い、自刃させたクーデター事件。暗殺事件との解釈もなされる。

当時、天下人の地位に最も近かった織田信長を、有力家臣の一人であった明智光秀が亡き者にするという日本史上においても最重要事件の一つである。

しかし、光秀が反旗を翻した原因については定かではなく、多くの歴史家が研究しているが、現在でも定説と呼ばれるものは確立されていない。

光秀の恨みや野望に端を発するという説、光秀以外の首謀者(黒幕)がいたとする説も多数あり、日本史上の大きな謎のひとつとなっている。


明智光秀は、武田征伐から帰還したのち、長年、武田氏との戦いで労のあった徳川家康の接待役を5月15日より務めた。

しかしながら、17日に光秀は接待役を途中解任されて居城・坂本城に帰され、羽柴秀吉援護の出陣を命ぜられた。

解任の理由は、15日に秀吉から応援の要請が届いたためである。

26日には別の居城丹波亀山城に移り、出陣の準備を進めた。愛宕権現に参篭し、28日・29日に「時は今 天が下知る 五月哉」の発句で知られる連歌の会を催した。

この句が、光秀の謀反の決意を示すものとの解釈があるが、句の解釈は種々ある。

これは西坊威徳院で詠まれ、発句を詠んだのが明智光秀であるから光秀が主客である。

主催者は行祐が脇句を詠んでいるのでこの座の亭主、つまり主催者である。

光秀は元来、土岐の末裔である明智であるので、苗字を時節にかけこの度本望を達したれば、私が天下を知る(治める)との心情を含めた大事の前の心境を吐露した物と解釈するのが一般的である。


また秀吉応援のために中国地方に出陣するのであれば、丹波亀山城から本能寺は全くの逆方向であり、1万3000もの軍勢を全く無駄に往復させるという、軍事上考えられない矛盾があるとの指摘がある。

明智光秀は重臣斉藤利光等に命じ本能寺にお泊りになられる御公儀様(信長)に中国遠征における閲兵を受けるためと称して老ノ坂を下り左の洛中に全軍を3手に分けて進軍をさせた。

桂川手前でおよそ1万の軍勢を残し、斉藤利光勢およそ3000を渡河させ洛中に向けた。

家臣たちは御公儀様(信長)の命令で徳川家康を討ち取ると思っていた。

一方、信長は29日に秀吉の援軍に自ら出陣するため小姓を中心とする僅かの供回りを連れ安土城を発つ。

同日、京・本能寺に入り、ここで軍勢の集結を待った。同時に、信長の嫡男・織田信忠は妙覚寺に入った。

翌6月1日、信長は本能寺で茶会を開いている。

信長は安土で朝廷よりの任官要請(関白、征夷大将軍、太政大臣)をいずれも拒否しており朝廷は不安に満ちていた。

つまり巨大な武力を持つ朝廷の家臣でもない者がこの時入洛してきたのである。

本能寺は無防備な寺ではなく、天正8年(1580年)年2月には本堂を改築し、堀・土居・石垣・厩を新設するなど、防御面にも優れた城塞としての改造を施されていた。

2007年に本能寺跡の発掘調査が行われると、本能寺の変と同時期のものと見られる大量の焼け瓦と、護岸の石垣を施した堀の遺構が見つかっている。

同じ6月1日の夕、光秀は1万3,000人の手勢を率いて丹波亀山城を出陣し京に向かった。

翌2日未明、桂川を渡ったところで「敵は本能寺にあり」と宣言したという(元禄年間の『明智軍記』にある「敵は四条本能寺・二条城にあり」が初出だが、同書は信憑性が低いとされている)。

江戸時代の頼山陽の『日本外史』では、亀山城出陣の際に「信長の閲兵を受けるのだ」として桂川渡河後に信長襲撃の意図を全軍に明らかにしたとあるが、実際には一部の重臣しか知らなかったとの見解が有力である。

なお大軍であるため信忠襲撃には別隊が京へ続くもう一つの山道「明智越え」を使ったと言う説もある。

またルイス・フロイスの『日本史』や、変に従軍した光秀配下の武士が江戸時代に書いたという『本城惣右衛門覚書』によれば、下級武士には徳川家康を討つものと伝えられていたことが窺い知れる。

6月2日早朝(4時ごろとする説あり)、明智軍は本能寺を完全に包囲した。


本能寺跡馬の嘶きや物音に目覚めた信長が蘭丸(乱丸)に訪ね様子をうかがわせた。

小姓衆は最初下々の者の喧嘩だと思っていた。

だが「本能寺はすでに敵勢に包囲されており多くの旗が見えていた。

紋は桔梗(明智光秀の家紋)である」と蘭丸(乱丸)に報告され、光秀が謀反に及んだと知る。

信長は「是非に及ばず」と言い、弓を持ち表で戦ったが、弦が切れたので次に槍を取り敵を突き伏せた。

しかし殺到する兵から槍傷を受けたため、それ以上の防戦を断念。女衆に逃げるよう指示して奥に篭り、信長は小姓・森蘭丸に火を放たせ、自刃したと言われる。

信長の遺骸は発見されなかった。

信長が帰依していたとする阿弥陀寺(上立売大宮)縁起によれば、住職・清玉が裏の生垣から割入って密かに運び出し、荼毘に付したとされる。

この縁で阿弥陀寺(上京区鶴山町に移転)には「織田信長公本廟」が現存する。

しかし本能寺には堀と土居があり、この説は疑問である。

また、この縁起「信長公阿弥陀寺由緒之記録」は古い記録が焼けたため享保16年に記憶を頼りに作り直したと称するもので、史料価値は低い。

未発見の原因は、大きな建物が焼け落ちた膨大な残骸の中に当時の調査能力で遺骸は見つけられないという指摘がある。

一方、本能寺から200mの近辺に教会のあったルイス・フロイスの『日本史』では、「(午前3時頃と言われる)明智の(少数の)兵たちは怪しまれること無く難なく寺に侵入して(6月2日に御所前で馬揃えをする予定であったのを織田の門番たちは知っていたので油断したと思われる)、信長が厠から出て手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。

直後に信長は小姓たちを呼び、鎌のような武器(薙刀)を振り回しながら明智軍の兵達に対して応戦していたが、明智軍の鉄砲隊が放った弾が左肩に命中した。

直後に障子の戸を閉じた(火を放ち自害した)」という内容になっている。

光秀謀反の報を受けた信忠は本能寺に救援に向かおうとしたが、既に事態は決したから逃げるように側近に諭された。

実際は包囲は十分でなく、織田長益など逃げおおせていた。

しかし信忠は明智軍は包囲検問をしているだろうからと逃亡をあきらめて、守りに向かない妙覚寺を離れ、京の行政担当者である村井貞勝らと共に二条御所(二条新造御所)に移った。

そして信忠は何箇所もの傷を負いながら2人を切り倒し、少人数ながら抵抗を見せて三度も明智軍を退却させた。時間の経過とともに、京に別泊していた馬廻りたちも少しずつ駆けつけ、反乱の去就が危うくなってきた。

明智軍は最後の手段で隣接の近衛前久邸の屋根から丸見えの二条御所を銃矢で狙い打ち、側近を殆ど倒した。こうして信忠は自刃し、二条御所は落城した。

妙覚寺には、信忠と共に信長の弟・織田長益(後の織田有楽斎)も滞在していて、信忠とともに二条御所に移ったが、落城前に逃げ出し、安土城を経て岐阜へと逃れた。

信忠が自害したのに対し、長益は自害せずに逃げ出したため、そのことを京の民衆に「織田の源五は人ではないよ お腹召させておいて われは安土へ逃げる源五 六月二日に大水出て 織田の源なる名を流す」と皮肉られたと言われている。

また、信忠が二条御所で奮戦した際、黒人の家臣・ヤスケも戦ったという。

ヤスケはもともと、宣教師との謁見の際に信長の要望で献上された黒人の奴隷である。

ヤスケは、この戦いの後捕まったものの殺されずに生き延びたが、その後の消息は不明である。

江戸時代を通じて、信長からの度重なる理不尽な行為が原因とする「怨恨説」が創作を通じて流布しており、明治以降の歴史学界でも俗書や講談など根拠のない史料に基づいた学術研究が行われ、「怨恨説」の域を出ることはなかった。

こうした理解は、映画やドラマなどでも多く採り入れられてきたため、「怨恨説」に基づいた理解が一般化していた。司馬遼太郎『国盗り物語』でも、この説に拠っている。

しかし、戦後は実証史学に基づく研究がすすんできた。その先鞭をつけたのが高柳光寿(野望説)と桑田忠親(怨恨説)であり、両氏はこれまで「怨恨説」の原因とされてきた俗書を否定し、良質な一次史料の考証に基づき議論を戦わせた。

現在ではさまざまな学説が唱えられており、光秀の挙兵の動機として怨恨(江戸時代までの怨恨説とは異なる根拠に基づく)、天下取りの野望、朝廷守護のためなど数多くの説があり、意見の一致をみていない。

また、クーデターや、信長による古くからの日本社会を変革させる急進的な動き(腐敗した仏教勢力への粛清など)への反動(反革命)とする説も多い。

本能寺の変の前年に光秀が記した『明智家法』によれば、『自分は石ころのような身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。

一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない』という趣旨の文を記しており、これによれば、信長に対しては尊崇の念を抱いていることが伺える。

また変の3ヶ月前の茶会において宝器をおく床の間に信長の筆による書を掛けるなど、信長に心服している様子がある。

このため、怨恨ではない別の動機を求める説も支持されており、特に光秀以外の黒幕の存在を想定する説が多く提起されている。

しかし、それら黒幕に関する主張は、光秀とその敵対者の双方においてなされたことはない。

ルイス・フロイスの『日本史』には「裏切りや密会を好む」「刑を科するに残酷」「忍耐力に富む」「計略と策略の達人」「築城技術に長ける」「戦いに熟練の士を使いこなす」等の光秀評がある。

従来は、ドラマや旧領丹波国など一部の地域では遺徳を偲んでいることなどの影響が光秀に誠実なイメージをあたえている。

しかし、教養の高い文化人で線が細いとみなされがちな光秀像と別に、フロイスの人物評や信長が「佐久間信盛折檻状」で功績抜群として光秀を上げたように、したたかな武将としての姿が伺える。

戦国史の権威であった高柳光壽が主張した、「天下が欲しかった光秀の単独犯行」とする説。

高柳は、怨恨説がいずれも後年の創作に依拠したものと看破し、史実とは認められないとした。

また、フロイス『日本史』の記述などから、武将として合理的な性格の光秀と信長との相性も良かったはずだと主張した。

現在、藤本正行、鈴木眞哉らがその主な後継論者となっている。


一般に知られる怨恨とされる事例は以下の様なものである。

悪臭のする魚を出して家康の接待役を解任され、面目を失った。

光秀は悔しがり食器を池に投げ入れた。

まだ敵地の出雲国・伯耆国もしくは石見国に国替えを命ぜられた。

八上城戦で母を信長のために死なせてしまった。

武田氏を滅ぼした戦勝祝いの席で光秀が「これでわしらも骨を折ったかいがあった」と言ったのを信長が聞き咎め「おまえごときが何をしたのだ」と殴り足蹴にされて恨んだなど。

まだ斎藤利三が稲葉一鉄の家来だった時に光秀が家臣として召し仕えたので、信長が利三を一鉄の元へ返すよう命じると、光秀はこれを拒否したため信長は光秀の髷を掴み突き飛ばした。

別本『川角太閤記』には、光秀が小早川隆景に宛てた書状として「光秀ことも、近年信長に対し憤りを抱き、遺恨もだしがたい」ために信長を討ったという記述が見られる。

また個別の事例は江戸時代以降に創作された講談や俗書によるところが多く、明確な史料に残る怨恨の事例は少ない。

桑田忠親は、フロイスの『日本史』にある「変数ヶ月前に光秀が何か言うと信長が大きな声を上げて、光秀はすぐ部屋を出て帰る、という諍いがあった」という記述を根拠として、武士の面目を立てるためであったとする新たな怨恨説を唱えた。

光秀は織田氏譜代の家臣で