無教会派の信者で指導者格の方がおられる。自分たちの考えだけが正しく、他の宗派ではダメだと考える傾向が強い宗派らしい。カトリックだけが正しいとされていた時代ならともかく、宗派の壁を越えて対話するのが主流の昨今では首を傾げるが、その流れになったのは、ここ数十年のことだから、無理もないかもしれない。
その方がクリスチャンになるには、恵みへの感謝と、罪の認識とでは、罪の認識を優先すべきとおっしゃったそうだ。どう考えても、恵みへの感謝から入り、経験を積んでから罪を認識するのが自然と思うが。私もイジメを乗り越えられた感謝から入った。でなければ、イジメられた私が悪いことになる。
そもそも、罪について力説したのはパウロだ。罪を強調するのはパウロ教だと皮肉る向きもある。主の祈りも、最初は不当に重い負債を軽くしたまえだった。キリストは、ローマ人やユダヤ教の指導者の圧政に苦しむ民衆を救おうとしたのだ。罪を犯した人を諌める場面もあったが、基本はあくまでも救いにあった。善男善女が罪を認識し始めたのは、キリスト教がヨーロッパに伝わってからの話。キリスト教は救いの宗教。自分が罪を認識するのは構わないが、他人に強要してはいけない。
その方がクリスチャンになるには、恵みへの感謝と、罪の認識とでは、罪の認識を優先すべきとおっしゃったそうだ。どう考えても、恵みへの感謝から入り、経験を積んでから罪を認識するのが自然と思うが。私もイジメを乗り越えられた感謝から入った。でなければ、イジメられた私が悪いことになる。
そもそも、罪について力説したのはパウロだ。罪を強調するのはパウロ教だと皮肉る向きもある。主の祈りも、最初は不当に重い負債を軽くしたまえだった。キリストは、ローマ人やユダヤ教の指導者の圧政に苦しむ民衆を救おうとしたのだ。罪を犯した人を諌める場面もあったが、基本はあくまでも救いにあった。善男善女が罪を認識し始めたのは、キリスト教がヨーロッパに伝わってからの話。キリスト教は救いの宗教。自分が罪を認識するのは構わないが、他人に強要してはいけない。