まだドラフト制度がなかった頃のプロ野球では、地方での有力人材が見つかると声をかけ、とりあえず入団させてから素質を見極めようとした動きが日常茶飯事に行われていました。

また親や教員のもつ「コネクション」による入団も多く見られ、後の大投手となる小山正明(320勝)や野村克也(2901安打)はこの部類出身選手でもあります。

高橋明は防府高校(山口県)の2年生時、甲子園地方大会で好投し準決勝に進出。下松工業に惜敗した為、西中国大会に進出する事はできないも注目を集め、1961年(昭和36年)、巨人軍に入団となりました。

日本スポーツ出版社が発行した「巨人軍の100人」によりますと、” 身長179cmは当時としては大型であり、端整の整った美男子として見栄えがよかった。今の時代なら大騒ぎになるだろう ” と記述されていますが、決して期待されてはなかったようで、入団となったのは当時の巨人軍事情もあったようです。

高橋が入団した1961年の巨人軍は、6年連続のリーグ優勝を逃したチーム事情から水原茂監督が退団し、川上哲治に交代。川上は海外キャンプをベロビーチで敢行し、ドジャース戦法をチーム内に導入するといったチーム改革に着手すると同時に、選手の入れ替えや育成に取り組んでいきます。

その為には、素質の見極めが必要だったようで、高橋も2試合(投球回は3回のみ)一軍のマウンドを経験しますが、被安打5 失点5 自責点5 防御率15・0と散々なデビュー。

二年目は11試合 投球回数は23・2回 1先発 するも、被安打28 0勝2敗 17失点 15自責点 防御率5・63 と打ち込まれ結果を出せず。冷静な哲学者と言われた川上監督なら、見切りをつけてもおかしくない成績が続きますが契約は更新。元々球威はあったそうで、このあたりが評価されての更新かと思われます。

そして迎えた3年目である1963年(昭和38年)に大ブレーク。42試合 26先発 12完投 3完封 208・2イニングを投げ、14勝(13敗) 防御率2・80 の活躍をみせ、中核選手の仲間入り。

同年の日本シリーズでは西鉄と日本一をかけて争い、第5戦では3-1の完封勝利。3勝3敗の最終戦にも登板した高橋は、稲尾との投手戦に勝利。3失点完投。日本シリーズ最優秀投手賞に輝きました。

ブレークとなった理由は、当時珍しかったナックルを覚えたからだと、「巨人軍の100人」では供述されています。

翌1964年(昭和39年)は181・0イニング 12勝(14敗)ながら、防御率は3・03 と結果を残しますが、以後、数年間は低迷。

巨人軍は不滅のV9時代に突入しており、1968年(昭和43年)に9勝(8敗)、1969年(昭和44年)に10勝(5敗)するも、1971年(昭和46年)に西鉄ライオンズ移籍となりました。

真相は不明ですが、川上監督が投手不足で困っている稲尾監督に、高橋を差し向けたとも言われています。

こんな事情もあって、本人も意地を見せ、1972年(昭和47年)は43試合に登板。27先発 11完投 204・2イニング 14勝(13敗) 防御率3・73 と復活。

しかし翌年は1勝(8敗) 防御率6・72 と打ち込まれ引退となりました。

2006年7月31日、胃癌の為、永眠されています。(64歳没)

 

高橋投手には面白いエピソードが幾つかあります。

①作家の故・伊集院静の長姉と結婚した関係から、二人は義理の兄弟である。

②巨人に同期入団した大熊伸行選手と仲がよく、落語の代表的な登場人物「熊さん、八っつぁん」をもじられ、あだ名が「ハチ」だった。

③西鉄移籍時、西鉄には外野手に同姓同名の「高橋明」がいた。その為、巨人で活躍した事を優先してもらい、そのまま高橋明で選手登録。逆に西鉄の高橋は、高橋外(外野手だから)と選手登録をした。

④ミスター赤ヘル 山本浩二の初ホームランは、高橋から打ったもの。

 

=通算成績=

71勝 72敗 0セーブ 0ホールド 543奪三振 防御率3・43

日本シリーズ最優秀投手賞1回