先日、娘の参観日に出席。

校門に立つ「二宮金次郎像」を見て感激?です。

私が通っていた小学校にも、同じ金次郎像が立っていました。

「貧しい中、働きながらも時間を惜しんで学業に励み、立派な大人になった人」と教えられ、ごく当たり前に思っていたのですが、数年前、ある番組において、”二宮金次郎像が学校から姿を消している” っと聞いてびっくり。

もう学校に金次郎像がないと思っていた事が、この感激の理由です。

 

二宮金次郎は江戸後期の農政家であり思想家。金次郎は幼名または通称であり、本名は尊徳(たかのり)。

裕福な農家に生まれましたが水害で田畑を失った両親が相次いで他界。

親戚に引き取られるも、夜に本を読むと油が惜しいと叱られる為、薪拾いの行き帰りに本を読みながら独学。

自立後は没落したお家を再興。噂を聞いた各藩から財政立て直しを頼まれ成功。600もの村を復興させた方でした。

 

金次郎の功績や履歴が評価されたのは後の時代ですので、都合よく祭り上げられた面もあったのかもしれませんが、学業の大切さや、勉強がしたくともできなかった時代背景を学ぶ意味でも、この銅像が学校にある事に疑問はなかったのですが、「時代背景にそぐわない」との声が高まったのが、銅像撤去の理由との事。

 

まずは歩きながら本を読むとはけしからん!との声。歩きスマホを容認・推進している・・なる解釈らしいです。

また歩きながら本を読むのは不謹慎とか危ないのに、これを真似るよう思い込ませるのはいけない・・なる声。

その他・・。

仕事しながら、別の事をする事は、仕事を軽んじる事につながるので、子供に教え込ませない方がよい。

勉強したい思いは個人の思いにすぎない。叔父に引き取られ仕事をして食べさせてもらっている身として公私混同のようなもの。

金次郎にとっての勉強は、現代人におけるゲーム感覚のようなもの。結局、歩きながらゲームする事を容認する行為。

養ってもらっている叔父さんに対する裏切り行為。人としてどうなのか?

結局、仕事よりも自分の好きな事をして満足しているだけ。こんな勉強方法は見本にならない。

調べたら、ものすごい批判の声に、こちらが驚きです(苦笑)

 

まあ、現代社会に合わない銅像だと言えば、そうなんでしょうけど・・。

そういえば先日、漫才師のオール阪神・巨人の巨人さんが、漫才審査委員を引退すると話していました。

理由は・・「今の漫才がわからない」との事。

言いたい事、50歳半ばの私にはよくわかります。

でも若い世代の方たちの思考ではないのかもしれません。

二宮金次郎の銅像は・・今の時代にそぐわない?のでしょうか??

なんか寂しい気持ちですけど・・。

 

当たり前だと思っていた事が、今では当たり前ではなくなった・・これが時代の流れってものなのでしょうか?

日本各地の小学校から、金次郎像が撤去されているそうです。

なんか寂しく思うのは、私が歳をとったから?