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1977年(昭和52年)、全日本プロレスに崩壊にもつながりかねない大事件が勃発。
「ジャンボ鶴田が独立し、新団体を旗揚げする」 というもの。(但し、これらは水面下の動きであり、事件が有名になったのは後年) 発案者はサムソン・クツワダ。 日本船舶振興会関与の大物から億単位(当時の億)の資金調達の話をつけ、全日若手のホープであった淵や大仁田、更には当時の人気力士であった高見山にまでも声をかけるという用意周到ぶり。 
しかし、このような動きが馬場の耳に入らないわけがなく、たちまちクーデターは露見し、鶴田は再交渉の末、ギャラ&待遇アップで残留。 サムソンは解雇となり全日本を去りました。(当時は公表されませんでしたが、後年、グレート・カブキによって真相が公表されます。)

1967年(昭和42年)、大相撲では芽が出ず、日本プロレス入りしたサムソンは、人気絶頂であったジャイアント馬場の付き人となります。 身長190cm 体重120kg という大型レスラーであったサムソンを馬場も可愛がり、全日本プロレスの腹心として、何かあれば相談するという師弟関係。 
サムソンも信頼に応え、中央大学時代、オリンピック出場という経歴の鶴田友美を馬場に推薦。 同時期、同じくオリンピックに出場した吉田(長州)ではなく、身体の大きな鶴田を獲得すべきと進言し、馬場が鶴田獲得に動いた事が、後年、どれだけ全日本の為に役立ったか。
また全日本プロレス旗揚げ戦では、駒(レスラー)不足の全日本をカバーする為、セミファイナルでブルーノ・サンマルチノと闘い興業を盛りあげる等、サムソンの協力は馬場にとっても恩に値するものでした。

そんなサムソンが何故、馬場を見限り、新団体発足に動いたのか・・。
色々な諸説がありますが、あるプロレスファンが書き込んだコメントを参照にしますと、「馬場の経営方針に対する反発からきたもの」 「プロレス業界再編成」 が一番的を得ているように思います。

ファンのコメント①=「全日本プロレスには日本プロレス崩壊後、日本人レスラーが合流し、陣容・経営も軌道にのっていきます。 しかしギャラを出し渋る馬場に対し、待遇面も含めた不満が高まり、腹心であったサムソンに相談がもちかけられるようになりました。 サムソンとしては放漫経営の末に潰れた日本プロレスの悪事を参考に、理想のプロレス団体を、尊敬する馬場と興したい気持ちが強かった分、レスラーの生活に振り向かない馬場に対し反感をもったようで、新団体では所属レスラーのギャラや待遇アップが目玉だったとの事。 結局、事前にクーデターを知った馬場により、” 私生活の乱れ” を表理由にされ解雇。 馬場は新日本や国際にも連絡を入れサムソン潰しに翻弄し、サムソンはこの事件後、プロレスから身を引いています。 後年、馬場が亡くなり、三沢が社長に就任した際、馬場元子と待遇改善交渉が行われるも決裂。 大半のレスラーが全日本を去り、新団体設立となった事から見ても、すでに設立当初から全日本には、運営をめぐるイザコザがあった事が伺えます。」

ファンのコメント②=「馬場の付き人として、華々しい活躍を見せたBI砲は、サムソンにとっては永遠の憧れ的存在でした。それだけに巨人症の影響で動きが鈍くなり、実力の衰え目立つ馬場に対し、いつまでも老体を見せるのではなく、絶対的なスターのままフロント入りしてほしいという思いが強かったようです。 その為、BI砲にかわる新スターこそが鶴田であると確信。 また藤波をはじめ、新世代の者たちにも参加を促します。 後年、クツワダの残した話しによると、鶴田・藤波以外にも、全日・新日から多数のレスラーが参加する手筈だったが、動きを知った馬場は、鶴田に共同経営代表を持ち掛け動きを封じ、猪木サイドにも内容を通達した事から、誰も話に協調してこなかったとの事。 ” 俺に人望がなかった ” と話していたそうです。」

このファンのコメントからすれば、けっして私欲の為のクーデターではなく、「レスラーの為、プロレス界の為」 の正義の行動だった事が伺えます。
反面、「サムソンが新団体を興そうとしたのは、鶴田や他のレスラーが、サムソンの地位(2番目あたり)を脅かす存在に成長。 馬場のサムソンに対する信用や待遇が下がったものによる」 「後年、サムソンは恐喝で逮捕歴ありの人物。 けっして聖人君主ではない。」 といった厳しい意見もあり。

真相は・・・ サムソンの永眠(2004年10月12日 享年57歳)によって、永遠の迷宮入りとなりました。