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2015年(平成27年)夏の甲子園大会は97回大会でありながら、第一回大会から数えて100年目にあたります。
途中、戦時中にて中止になった他、なんと米騒動で中止になった年があり、100回目の記念大会は3年後となりますが、いかに野球が日本人に愛されたスポーツだったのかが、この長い歴史から伺えます。

そんな高校野球(当時は中等野球)において、今でも伝説の大投手と言えば沢村栄治。 京都商業のエースとして甲子園に出場するも優勝にからむことはありませんでしたが、その豪速球は中央にも鳴り響き、発行部数に伸び悩む読売新聞社が存続の危機を乗り切る為招聘した、昭和9年の 「大リーグ選抜軍」 との親善試合において大奮闘。 この沢村栄治のライバルであった大阪の名門・市岡中学のエースが南村です。

今でこそ有名私立高校に押されて甲子園から遠のいている市岡高校ですが、進学校でありながら戦前・戦後において甲子園の常連校でした。 (帽子に黒の三本線の入った伝統のユニホームは有名です。)
まだ時代はプロ野球発足当時。 海とも山とも言えないプロ野球への眼は厳しく、「神聖な野球で飯を食うなんて、ろくな奴らではない」 と蔑まれた時代・・・。 そんな時代背景もあって、南村が明晰な頭脳を生かすべく早稲田大学に進学し、三井信託銀行に就職したのは当然のこと。

転機が訪れたのは1950年(昭和25年)における二リーグ分裂によるもの。 戦後早々に復興したプロ野球でしたが、100名あまりもの戦死者・負傷者を出し、爆発的な人気とは裏腹に選手不足で苦しむ中、人気を利益に結び付けたい企業たちが続々とプロリーグ参戦を希望。 理想であった二リーグ制は実現しますが、プロとは名ばかりのチームが続出します。
そんな中、早稲田大学時代、首位打者に二回輝き、社会人でも活躍した南村に対し、西日本パイレーツの監督だった早稲田の先輩・小島利男が熱心に勧誘。 32歳にして銀行員からプロ野球に転職となります。

本人=「入団当時、年齢的にはリスクもあったが、全くもって若い奴らに負けるような気がしなかった」 と言うだけの事はあり、いきなり4番打者として3割 11本塁打 をマークする大活躍。 
以後も西日本の中心選手で・・・ のはずが、ここが時代にのって編成されただけの弱小チーム。 翌1951年にはチーム消滅となり巨人軍に移籍となります。 (セ・リーグの西日本が、パ・リーグの西鉄と合併案を出した事が大きくモメる事となり、西日本選手の所有権がセ・リーグにあると言い張る巨人軍が勝利した格好で、南村を巨人に入団させます。 別所引き抜き事件といい、長嶋引き抜き入団といい、後の江川問題といい、巨人軍には当時からこういった強引な手法がありました。)

背番号は「1」。 巨人では主に6番~7番打者としてレギュラー定着。(時には3番、5番も)
守備はイマイチでしたが打撃は得意で、ボックス前方に立ち、オープンスタンスから左右に打ち分ける技術で人気を博しました。 移籍すぐの1951年 日本シリーズでは16打数 9安打 打率562 と大活躍。 MVPにも選ばれています。

40歳で引退。 麻雀好き、ブラック・コーヒー好き、魚は食べない偏食家・・。 好人物と伝わっていますが、2001年 日本スポーツ出版社発行 「人物で綴る巨人軍の100人」 での座談会企画において早稲田&巨人OBの広岡達朗は、「南村さんが意地悪くて、バッティングゲージに入ってもバットをポーンと投げたりするが、宇野光雄さんなんかは優しくて、” 俺の打撃練習時間をやるから打て” ってくれたり、千葉さんなんかも気にかけてくれました・・」 と語っています。

学生時代は「黒バット」だった事から 「黒バットの南村」 1954年、不可止から侑広に改名。
1990年4月17日 まだ73歳という若さで永眠。

= 通算成績 =
740安打  39本塁打  357打点  128盗塁  打率283
ベストナイン2回  日本シリーズMVP1回  オールスター出場3回