命日でした。
もう一年前を振り返っても、その日にモコはいない。
モコがいなくなってからの日々が一年続いてしまった。
あの日のことを思い出す。
看取りに入ってから、
そしてその時。
それから。
一年たったって、涙は勝手に出てくるし、
胸がぎゅっとなるし、
悲しみは少しも減らない。
でも色んなことは忘れていて、
きっかけがあれば思い出せるけど、
すぐに出ないこともある。
そんな事実も悲しい。
命日前に一人、モコがお世話になってた人がモコに会いに来てくれた。
モコがこうでしたよね、嫌だったらしーんとして無視してましたよねー、等
モコの思い出話が出来た。
こういうモコの話をすること、が本当の供養だよね、と思った。
そういう人達だけを集めて一周忌出来たらいいのに、と思う。
命日当日は、職場の人たちが10人もモコに会いに来てくれた。
すごく賑やかで、モコも嬉しかったと思う。
私たちもこんなにモコに会いに来てもらえたことがありがたく、嬉しかった。
昨日の一周忌終了後に一家族、そして今日職場の上司と子どもさんがおまいりに来てくれた。
距離的におまいりには来れなかったけど、命日にLINEしてくれた人達も。
たくさんの人が今でもモコのことを想い、命日を覚えていてくれて、
こうやってそれぞれに会いに来てくれたりメッセージくれることを本当にありがたいと思う。
モコが生まれてきて、その人生を生き抜く中で、私たち家族にのこしてくれたものだと実感する。
モコちゃんありがとう。
昨日は一周忌でした。
一般的に命日より前に一周忌を行うそうですが、宗派的にそういう決まりはなく、お寺の都合やかなごんの都合的にも難しかったので、
命日の次の日の昨日となりました。
でも命日より前に一周忌をする、これって意味があることなんだなぁ…と思いました。
一周忌の準備に追われ?(精神的に余裕なく?)、
命日に集中出来ない。
ゆっくりとあの日を思い返す時間になりにくい。
やってみないとわからなかったなぁ。
一周忌は滞りなく終わりました。
私の方の家族はほぼ勢揃い。
ダンナの方はいつもの人数。
数にして3倍近く私の方の家族が多かったのです。
甥っ子姪っ子で賑やかで、子どもたちは楽しそうにしており、きっとモコも楽しく中に入ってたのだろうなぁと思いました。
今回供養を担って下さったのは、いつものご住職の息子さん。
お念仏が終わりお話になった時、
「この一年、今までと同じ風景が違って見えたり、イベントごとに去年までと違ってモコさんがいない、と悲しく思われることがあったのではないかと思います」
と言われ(だいたいこんな意味なので、正確な言い回しではないです)
涙涙…
「モコさんがいなくなっても、世の中はとまらずに変わらず回り続け…」
そうなんですよね、モコがいなくても、そのことにより私たちが止まってしまってても、世界は何も変わらず支障なく動いていく。
虚しく悲しくなりました。
「いつもの日常が当たり前でないこと、ありがたい(在り難い)ことなんだと、モコさんが教えて下さったのですね」
ありがたい、という言葉にそういう意味があるというのは、モコの供養が始まってから初めて知ったことでした。
今目の前にいる子達が存在するというのは当たり前でなくて、次の誕生日を迎えることも当然必然でもない、
この一日一日、一瞬が奇跡で二度と戻らない、次あるかわからないものなんだと、モコを失くして思うようになりました。
私たちより随分若い息子さんですが、私たちの気持ちに寄り添って一生懸命言葉を紡いで下さったことが伝わり、ただただ感謝でした。
その後の食事会も無事に終わり、解散となりました。
終わってから感じるのは、私は身内に恵まれたということ。
労りの言葉、心配する言葉をかけてもらい、他愛もない話が出来る関係性。
他方の様子を見ていると、そのことを本当に感じました。
他方は、相変わらずでした。
三回忌は呼ばなくてもいいんじゃないかな
ひとまず無事に終わったことに安堵しました。
一段落したので、モコのことをゆっくり思い出したり考えたりしようと思います。