こんばんは😊
ドタバタだったHickeyです😱
今日は朝からドタバタした1日だった😅💦
出勤前に地区の敬老会の会場設営でドタバタ…
会場設営が終わったら出勤して仕事でドタバタ…
敬老会が開始する昼に会場にドタバタと戻り…
町内会の青年部を代表して祝辞の挨拶でドタバタ…
おなじみの『元気ですかっ!』と祝辞をのべて…
うちの地区の敬老会お爺ちゃんお婆ちゃん達の
文化祭を兼ねているので色々な演目があるんで
最初だけ少し見て中座して仕事場へドタバタと戻り
会が終わった時に連絡をもらいドタバタと会場へ…
会場の撤収をしたらまたまた仕事場へ…
そんな感じで行ったり来たりでドタバタ😱
ところで諸君らは
敬老の日の由来
これを知っているかね❓🫵😏
敬老の日というのは国民の祝日に関する法律で
多年にわたり社会につくしてきた
老人を敬愛し長寿を祝う日㊗️
そう定められているんだよな🫵😏
この敬老の日が国民の祝日として制定されたのは
昭和41年のことで平成14年までは9月15日が
敬老の日だったんだけど覚えているかな❓
今はハッピーマンデー制度が導入されるようになり
9月の第3月曜日が敬老の日になったんだ🫵😏
ちなみに今の9月15日は老人の日なんだよな😳
ややこしいだろ😅💦


さて敬老の日の由来だが色々な説があるんだ⁉️

まず1つ目は【としよりの日】由来説‼️


兵庫県多可郡多可町八千代区(旧野間谷村)では

昭和22年から9月15日は【としよりの日】とされ

地域で年寄りを敬う日として定着していたんだ🫵😏

この【としよりの日】がやがて全国へと広がり

敬老の日の制定につながったという説‼️


2つ目の説は

【聖徳太子が悲田院を建立した日】由来説‼️

崇峻天皇5年(593)年に聖徳太子が生活困窮者や

身寄りのない人を収容するための施設である

「悲田院(ひでんいん)」を大阪に建立‼️

この悲田院が9月15日に建立されたことか

この日が敬老の日になったという説‼️


3つ目の説は

元正天皇が養老の滝に御幸した日】由来説‼️


美濃国に貧しい木こりがいて病の父に滝の岩間で

汲んだ湧水を飲ませたところ…

なんとすっかり元気になったそうなんだな🫵😏

この出来事が都に伝わり霊亀3年(717)9月15日

元正天皇がこの滝を行幸されたんだそうだ🫵😏

滝の湧水を『老を養う若返りの水よ』と称えられ

元号を元亀から養老と改元したんだな⁉️

この元正天皇が行幸した日が

敬老の日の由来になったとされる説‼️


昭和41年に制定された比較的に新しい祝日の
敬老の日なのに由来がはっきりしないんだな⁉️


さて昨日は【歴史は勝者によって創られる…】
そういう題で話をさせていただきました‼️

まだ御覧になってない方は

下をクリックして御覧ください⬇️


さて本題はここから‼️

今日のテーマは【友情】です‼️


土耳古(トルコ)が親日国だという事を

諸君らは知っていたかね❓🫵😏🇯🇵🇹🇷

かつてイラン・イラク戦争というのがあったんだが

その時に48時間後に攻撃が迫っていたんだが

テヘランには取り残された日本人が215名⁉️

その時に土耳古🇹🇷から駆けつけた救援機2機により

日本人が215名全員がイランを脱出‼️ 




Image

なぜこの時に土耳古🇹🇷が助けてくれたのか❓

それは今日お話をする

エルトゥールル号の遭難事故

これが関係してくるんだよな🫵😏🇯🇵🇹🇷


【Hickeyの今日は何の日?🤔】

明治23年(1890)9月16日

エルトゥールル号遭難事件発生‼️

和歌山県串本沖で

オスマン帝国の軍艦が遭難⁉️



時は19世紀末…

ヨーロッパ列強との不平等条約に苦しんでいた

オスマン・トルコ帝国皇帝アブドゥルハミト2世は

その頃に同様の立場にあった日本との平等条約締結の

促進をはかっていた‼️



また明治20年には小松宮彰仁親王殿下が土耳古を

訪問されていたためそれに対する返礼などの目的で

親善使節団の派遣を計画したんだな‼️



親善使節団の特使はエミン・オスマン海軍少将…

この人は日本への航海中に提督(パシャ)となって

オスマン・パシャと呼ばれようになった人な🫵😏



使節団座乗艦にはフリゲート艦の

エルトゥールル号

これが選ばれたんだよな🫵😏🇹🇷


  • 2,344t/600馬力木造軍艦
  • 速力10ノット
  • 全長76.3m/幅13.3m
  • 口径15センチ艦砲×8門
  • アームストロング砲×5門


明治22年7月14日

イスタンブールの港を出港したエルトゥールル号は

スエズ運河を抜け途中各地のイスラム教国に対し

教主国としての威厳を示しながら寄港しながら

明治23年6月7日

横浜港に到着


使節団一行は明治天皇に謁見し皇帝より託された

土耳古最高勲章および種々の贈り物を天皇に捧呈し

両国の修好という皇帝の意を天皇に伝えたんだな‼️

これに対し…

明治天皇は使節に勲章を授けて饗宴をひらいたんだ❗️

使節団一行は東京に3か月滞在🇯🇵🇹🇷

日本は官民を挙げての歓迎をしたんだぞ🫵😏

明治23年9月15日

横浜港を出港

帰国の途についたんだ(^^)/~~~

この時に日本側は9月が台風の季節だという事や

エルトゥールル号が建造後26年の木造船であるから

出航を前に修理を行うよう勧めるんだが

オスマン少将は帰途が遅る事がないようにと

予定通り出港してしまったんだな…

横浜港を出航した翌日となる9月16日

エルトゥールル号は串本町大島樫野崎沖をプカプカと

航海していたんだが運悪く台風に遭遇⁉️

暴風雨と猛烈な波によって航行の自由を失ってしまい

次第に樫野崎に寄せられていき…

地元でも昔から船乗り達に恐れられてきた

船甲羅岩礁に船体が激突してしまったんだよな⁉️

船体破損部から流入した海水により機関の爆発⁉️

オスマン海軍少将以下587名が殉職

生存者わずかに69名という大海難事故となった‼️



エルトゥールル号の遭難事故

これが発生した当時…

大島島民は不眠不休で生存者の救助や介護…

また殉難者の遺体捜索や引き上げにあたって

日本全国からも多くの義援金であったり物資などが

遭難将士のために寄せられたんだそうだ‼️

69名の生存者は神戸で治療を受けた後…



同年10月5日

日本海軍の戦艦である比叡と金剛の2隻によって

帰国の途につき翌年の明治24年1月2日には

無事にイスタンブールに入港‼️

比叡、金剛の2隻は

土耳古国民の心からの感謝に迎えられたんだ🫵😏


(金剛⬇️)


(比叡⬇️)


この時に受けた恩を土耳古は忘れていなかった‼️

時は流れ昭和60年…

イラン・イラク戦争というのがあって

その時に48時間後に攻撃が迫っていたんだが

テヘランには取り残された日本人が215名⁉️

その時に土耳古🇹🇷から駆けつけた救援機2機により

日本人が215名全員がイランを脱出‼️ 



『なぜ土耳古🇹🇷の航空機が来てくれたんだ❓』

日本政府もマスコミもわからずにいたんだが

当時の駐日土耳古大使のネジアティ・ウトカン

エルトゥールル号の事故に際して

日本人がなしてくださった献身的な救助活動を

今も土耳古の人達は忘れていません!

私も小学生のころ歴史の教科書で学びました!

土耳古では子供達でさえ

エルトゥールル号の事を知っています!

今の日本人が知らないだけです!

それでテヘランで困っている日本人を助けようと

トルコ航空機が飛んだのです!




遭難事件の時に日本人は遭難海域を眼下に見下ろす

樫野崎の地に殉難将士の遺体を丁重に埋葬🙏

翌年2月

地元有志が土国軍艦遭難之碑を建立‼️



昭和4年…

昭和天皇土国軍艦遭難之碑に慰霊されています🙏

そして慰霊祭は今でも

土耳古共和国との共催で続けられています…🙏




あの遭難事故から134年…

日本土耳古の友情は

今も昔と変わらず続いている…




最後になりましたが

エルトゥールル号の遭難事故

亡くなった全ての方々へ…


黙祷


皆さん‼️

どう思いましたか❓

共に日本のために‼️

全ては日本のために‼️