こんばんは‼️ Hickeyです‼️



ノロマ台風のサンサン…四国に再上陸⁉️

今日は関東の雨が酷かったようだね☔️

明後日(9月1日)には紀伊半島付近で熱帯低気圧に

変わるとみられるそうだな🫵😒

関西・東海地方は明日(8月31日)〜明後日(9月1日)

線状降水帯が発生しやすいらしい☔️

つまり…まだまだ雨は続くわけだな☔️😨💦



日本人は災害というと公助が当たり前と考えて

自助共助が疎かにになりがち🫵😒

減災の基本は自助だという事を忘れるな🫵😒

ただただ

あなたが無事でありますように

心から祈りを捧げます🙏




今日は8月30日かぁ〜🤔

愛國者保守日本人にとって

8月30日屈辱の日なんだよな🫵😒

 

 

 

過去のブログでも話をしてるから屈辱の日

忘れないように下をクリックして御覧ください⬇️



さて昨日は【道】

そういう題で話をさせていただきました‼️


それぞれの道を人は歩んでいる❗️

自分が何ものかを知る事で自分の歩む道を見つけ

人はそれぞれの道を歩んでいる❗️

人は自分では真っ直ぐに歩んでいるつもりでも

時として真っ直ぐ歩み続けていない事がある…

真っ白な砂浜を歩いている…ふと振り返えると

自分では真っ直ぐ自信を持って歩んできたつもりが

思いもしない方へ右へ左へと曲がっている時がある…

振り返るからこそ人は元の道に戻る事ができる❗️

振り返った時に元の道に戻る事ができるか…

道を外れたままになってしまうか…

これはその人の持つ道徳心で決まるのだ❗️

人は真っ直ぐ歩んで行くため道徳心が必要なのだ❗️


さて昨日の話にコメントが寄せられているので

ここで御紹介させていただきたいと思います😊

まずは

オヤジ戦隊ダジャレンジャーさん😊




オヤジ戦隊ダジャレンジャーさん

コメントありがとう御座いました😊


次は中島工業さんです😊


中島工業さん😊

コメントありがとう御座います😊


さらに

キョッチ(チョッチ)さん😊



キョッチ(チョッチ)さん😊

コメントありがとう御座います😊



まだ御覧になってない方は

下をクリックして御覧ください⬇️



本題はここからです‼️

今日のテーマは【名将】です‼️



昭和40年(1965)8月30日

大東亜戦争を闘い抜いた名将が亡くなりました…

その名将の名は…

宮崎繁三郎



『宮崎繁三郎❓誰それ❓🤔』

そう思った者が多いんじゃないだろか❓🫵😒

宮崎繁三郎明治25年(1892)1月4日に

岐阜県厚見郡北島村(現・岐阜市)に生まれたんだ❗️

宮崎は陸軍士官学校を卒業(26期)

席次は737人中230番‼️

歩兵第16連隊(新潟県新発田市)に配属され

陸軍軍人の道を歩む事になったんだな❗️

二度の挑戦で陸軍大学に合格💮

陸大では成績はズバ抜けて良いわけじゃなくて…

出世も早い方じゃなかったんだから驚きだよな⁉️

陸大の成績と前線における能力は別物らしくて

野戦指揮の能力は抜群だったそうだ‼️


昭和14年(1939)

ノモンハン事件には歩兵第16連隊長として参戦❗️

ソ連が本腰を入れて大軍を投入してくる中で

大日本帝国陸軍は一個師団をほとんど失うも

それを上回る甚大な損害をソ連軍に与えてるんだ❗️

露助に甚大な損害を与えるなんて痛快じゃないか😏

このノモンハン事件での宮崎の活躍は目覚しくて

難戦の最終局面で敵の戦車部隊を撃退し敵地占領‼️

宮崎は機転をきかせて日本が占領したことを記した

石をその地に埋めておいたんだ‼️

それが後にいきてくるんだな🫵😏

ノモンハン事件後の国境策定交渉においてソ連

モンゴル側が主張する境界が国境として合意されたが

16連隊の担当範囲であった南部においては

宮崎の機転によって埋めらた石により

満州国・日本側に有利な境界が定められたんだ‼️




昭和19年(1944)

インパール作戦の時には陸軍少将になっていた宮崎

第31師団・歩兵旅団長として参戦してるんだな‼️



インパール作戦は第15軍の牟田口廉也司令官の

補給を無視した無謀な指揮により大日本帝国陸軍は

戦死者が約3万人…戦傷病者が4万人という甚大な

犠牲を出した‼️



そんなインパール作戦だが宮崎の活躍はめざましく

山岳地帯では宮崎が自ら大きな荷を背負い進軍し

部隊の先頭に立って指揮をし激しい戦闘の末に

要衝の地であるコヒマを攻略したんだ‼️

コヒマはインド北東部の都市‼️

ここはインパールへの重要な補給路だったんだ‼️

しかしほどなく猛烈なイギリス軍の反撃が始まり

第31師団は補給路を断たれて孤立⁉️

だが…信じられない事に第15軍は第31師団に

無謀な命令を下すばかりで食糧を供給せず⁉️

これに立腹した佐藤幸徳師団長は無断抗命撤退⁉️

しかし佐藤幸徳師団長は

宮崎の歩兵団には現地死守を命じるんだよな⁉️

これで宮崎の部隊は敵中に置き去りに⁉️

それでも宮崎は全く諦めなかったんだな🫵😏

巧みな遅滞戦術で友軍が退却するだけの

時間的余裕を生み出し新たに撤退命令を受けると

見事に殿(しんがり)を務めたんだ‼️

この撤退で宮崎負傷兵を決して見捨てずに

更に戦病死した将兵は必ず埋葬していったんだ‼️

宮崎自ら負傷兵の担架を担ぐという事もしたし

空腹を訴える者には自分の食糧を与え励まし

時には敵から食糧を奪いとったりもしたそうだ‼️

宮崎が凄いのは自分の部隊の部下だけじゃなく

撤退途中で見つけた他隊の兵も同じように扱い

負傷者は収容して共にに退却をしているし

死者は埋葬し続け撤退をしていってることだ‼️


最少の犠牲で

最大の効果をおさめるのが戦闘の根本である!

それには量よりは質

質よりは和の体制をとらねばならない


そう宮崎は語っているんだな🫵😏

あっぱれな指揮官だよ🫵😏

インパール作戦後に第54師団長となった宮崎

昭和20年(1945)4月にイラワジ川下流域で

防衛戦を行ないますが晝間(ビルマ)方面軍の

木村兵太郎司令官が逃亡してしまうんだな⁉️

つまりまたも宮崎敵中に孤立してしまった訳だ❗️

宮崎らは山地に逃げ込んだが補給がないもんだから

壮絶な餓えに苛まれる事となる…

そこでやむなく分散して敵中突破をはかるんだ❗️

半数程のが犠牲が出るもシッタン河に辿りつき

宮崎英国軍を撃退することに大成功‼️

ビルマでの戦いは全体としては惨憺たる戦いだが

宮崎の下で戦い抜いた将兵たちは皆が口々に

自分たちは負けていない

そう胸を張ったといわれているんだ🫵😏

宮崎が凄いところの一つは

何度も敵中に置き去りにされる目に遭いながらも

絶対に司令部や上官を批判しなかった事‼️

正に武士だよな〜🫵😏

 また宮崎は戦後に自分の手柄を誇ることは一切なく

すべては部下たちのおかげだ!

そう語り部下を称えたと言うんだな🫵😏

昭和22年5月

帰国した宮崎小田急線下北沢駅の近くに

陶器小売店岐阜屋を開業したという‼️

そのまま戦後を穏やかに暮らしたそうだ🫵😏

そんな宮崎だったが死の直前に見舞いに訪れた

村田稔(中佐、第54師団参謀)は宮崎がうわごとで

敵中突破で分離した部隊を間違いなく掌握したか?

そう何度も言っていたのを聞いたそうだ‼️

この事からわかる事は宮崎

シッタン河を目指し敵中突破をはかり部下の半数を

死なせてしまった事を心から悔やんでおり

それを終生ずっと気に病んでいたという事だ‼️

昭和40年8月30日

宮崎繁三郎 


享年73


最後の最後まで部下思いの

強く優しい名将であった…


マスコミ大東亜戦争

太平洋戦争と呼び続け

『日本が間違った戦争をした!』

『日本が亜細亜を侵略した!』

『日本が残虐の行為をした!』

そう我々に東京裁判史観という

自虐史観を刷り込もうとする❗️

マスコミが語る戦記には

宮崎繁三郎のような部下思いの

名将の名は決して出てこない…




皆さん‼️

どう思いましたか❓

共に日本のために‼️

全ては日本のために‼️