Hickey超訳・古事記27




⬇️Hickey超訳・古事記《上つ巻》⬇️



Hickey超訳・古事記

《中つ巻》

⬇️もくじ⬇️





【大帯日子於斯呂和気天皇】

(オオタラシヒコオシロワケノスメラミト)

《景行天皇》




~思国歌~(くにしのびうた)


倭建命(ヤマトタケルノミコト)

杖をついてフラフラとぼとぼと歩きながら

尾津前(おつのさき)の一本松に辿りつくと

かつて食事をした時にソコに置き忘れていた刀が

そのままの姿で残っとったんだわ…

それを見てヤマトタケルノミコト

次の歌を詠んだんだ…

尾張(おわり)に 直(ただ)に向へる

尾津(をつ)の崎なる 

一つ松   あせを 

一つ松 人にありせば

大刀佩(は)けましを 

衣着(きぬき)せましを

一つ松 あせを


《Hickeyの御歌訳》


尾張の国に真っ直ぐ向かってる

尾津前(おつのさき)の一本松よ!お前よ!

この一本松が人であったなら

その太刀を佩かせてやれるのに…

この着物を着せてやれるのに…

一本松よ!お前よ!


(下の写真は尾津前にある倭建命遺跡⬇️

この地で忘れた刀と再会したという…)



ヤマトタケルノミコト

その地よりさらに頑張って進んで

三重のある村にたどり着いた時に

『俺の足は三重に曲がった

 餅のようになってまったがや…

もう…もう…どら疲れまったがや…😫』

そう言って嘆き悲しんだんだわ…

ほんだもんだでその地を三重って言うんだわ☝️😒



ヤマトタケルノミコトはソコから更に進み

能煩野(のぼの)に着いた時に

故郷を想い歌を詠んだんだわ…


倭(ヤマト)は 国のまほろば

たたなづく 青垣

山隠れる 倭しうるはし


《Hickeyの御歌訳》


大和は国のなかでも最も良いところだ!

重なりあった青い垣根の山

その中にある大和は美しい


また次の歌を詠んだんだ…


命の 全(また)けむ人は

たたみこも 平群(へぐり)の山の

熊白梼(くまかし)が葉を

華(うず)に挿せ その子



《Hickeyの御歌訳》


命の無事な人は平群の山の樫の葉を髪に挿して

力強く生きていけ!

皆の者よ!


この歌は思国歌というんだわ‼️


ほんでまた次の歌も詠んだんだわ…


愛(は)しけやし

我家(わぎえ)の方よ

雲居起ち来も


《Hickeyの御歌訳》


懐かしい我が家の方だ

雲が湧き起ってくるのは


これは思国歌の片歌だがね‼️


片歌ってのは五・七・七から成る歌の事だがね☝️😒


この歌を詠んだあと

ヤマトタケルノミコトは危篤に…

そして薄れゆく意識のなかで最期の歌を詠むんだわ…


嬢子(おとめ)の

床の辺に 我が置きし

剣の大刀 その大刀はや 


《Hickeyの御歌訳》


乙女の床の傍らに

オレが置いてきた草薙剣よ…

ああ…その太刀よ…


この歌を詠み終えた

ヤマトタケルノミコト

静かに息をひきとったんだわ…




~八尋白智鳥~(やひろしろちどり)


ヤマトタケルノミコトの死は早馬で

大和へ伝えられたんだわ‼️

大和におる天皇(スメラミコト)の后達や御子達は

能煩野(のぼの)の地へと急ぎむかい

ヤマトタケルノミコトの元へ行って

御陵を作りなつぎ田(御陵の周囲の田)を

這い回って嘆き悲しみながら歌を詠んだんだわ…


なづきの田の

稲幹(いながら)に 稲幹に

葡(は)ひ廻(もとほ)ろふ

野老蔓(ところづら)


《Hickeyの御歌訳》


御陵の周りの田の稲の茎に

稲の茎に

這い廻っている山芋の蔓(つる)よ


この歌は御陵を稲に喩え稲の周りに這い廻る

山芋の蔓を墓の周りで悲しむ后達や

御子達にたとえとるんだわ☝️😒


すると…

ヤマトタケルノミコトの魂が

亡骸から抜け出し八尋白智鳥の姿となり

(八尋白智鳥=やひろしろちどり;大きな白鳥)

天を翔けるように浜に向かって飛んでいったんだわ…



そこで后や御子達は小竹の切り株で足を切りながらも

その痛みをも忘れ泣きながら追いかけたんだわ‼️

んで…この時に歌を詠んだんだわ…


浅小篠原(あさじのはら) 腰なづむ

空は行かず   足よ行くな 



《Hickeyの御歌訳》


丈の低い篠(しの=小竹)の原に行くと

篠が腰にまとわりつき苦労する

鳥のように空を飛んで行くことも出来きず

足で歩いて行くしかない


また海に入り難儀しながらも追いかけとる時に

次のように歌を詠んだんだわ‼️


海処行(うみがいけ)ば 腰なづむ

大河原の植ゑ草 海処は いさよふ



《Hickeyの御歌訳》


海に入って行くと海の水が腰にまとわりつき苦労する

広い河に生える草がゆらゆらしているように

海ではゆらゆらし足を取られ進めない


その千鳥が飛んで磯に止まった時に詠んだ歌が


浜つ千鳥(ちどり)

浜よは行かず

礒伝(いそづた)ふ


《Hickeyの御歌訳》


 浜の千鳥は追いかけやすい浜辺を飛んで行かず

追いかけにくい磯伝いに飛んで行く


この四つの歌は

その御葬(みはぶり)で歌った歌で

今に至るまでこれらの歌は

天皇の大御葬で歌う歌なんだわ‼️

そして

千鳥は能煩野(のぼの)から飛び翔けて行き

河内(かわち)の国の志幾(しき)に留まったから

その地に御陵を作り鎮座してもらったんだわ🙏



そのことから

ヤマトタケルノミコト御陵の名は

白鳥御陵と言うんだがね‼️

しかし…留まった千鳥はその地より更に

天へと翔けて飛んで行ったんだわ……


ところでヤマトタケルノミコト

国を平定しに出た時に

久米値(くめのあたい)の祖である

七拳脛(ななつかはぎ)が常に

膳夫(かしわで)として従い仕えていたんだわ…

(かしわで=料理人)


こうしてヤマトタケルノの冒険活劇は終わる…

なぜ冒険活劇の最後が久米値の祖の話なのか😨

血統やら系譜を大事にするところが

古事記らしいちゃ古事記らしい😨

《景行天皇》の章は《倭建命の妃と御子》があり

終わるのだが《倭建命の妃と御子》の話は

次回の冒頭に入れることとする…



つづきは次回

Hickey超訳・古事記28で☝️😊



みんなで古事記を楽しもう😊🇯🇵