関ヶ原の戦い後、堀尾吉晴、忠氏(初代藩主)親子は家康より出雲、隠岐を拝領しました。
堀尾氏は広瀬の月山富田(がっさんとだ)城に入城しますが、松江に新たなお城を普請します。
松江開府の祖となる吉晴は、秀吉にも仕えた城普請の名人といわれ、2代目の忠晴(吉晴の孫)と共に松江城と城下町の普請を行いました。
忠氏の子、堀尾家2代藩主 忠晴は嫡子がなく、お家は断絶となります。

1634年 堀尾家のあとを京極忠高(若狭守)が継ぎますが、統治3年で45歳の若さで亡くなります。

忠高の正妻は2代将軍 秀忠の4女の初姫。初姫は忠高の入城前に亡くなっています。

初姫の臨終に立ち会わず、相撲観戦をしていたらしく、秀忠と3代将軍 家光は怒り心頭で、葬儀は小石川伝通院で行われ、京極家は臨席を許されなかったそうです。
その頃、九州では島原、天草一揆が起こり、中国地方には外様大名しかいなかったため、家光は松平直政の入国を決めたといわれます。
松平直政は家康の次男 結城秀康(秀吉の養子となるも、鶴松誕生後に結城家に婿入り)の3男。てことで、家康の孫。
家康が後継者を決める際にも、結城秀康を推す声もあったとのこと。ただ、秀忠の母の方が身分も上だったこともあり、当初から後継者は決まっていたともいわれます。
↑松江城天守4階にある、箱便所。お殿様が御使用されるためのものだそうです。
↑直政は14歳で大坂の陣に参戦。初陣でした。
兄の忠直に従い武功を上げ、16歳で大名となります。
直政は33歳で松本藩7万石、38歳で松江藩18.6万石へと移封されます。
家光の従兄弟として、幕府でも重用され、家光の名代として、霊元天皇即位の際に上洛、参内したりもしています。
家光とは3歳違いのお兄さん従兄弟。何となくほのぼのした気分になりますが、キリシタンへの弾圧は堀尾氏、京極氏を凌ぐ厳しさだったそうです。
明治になると、廃城の動きが高まりますが、松江城は地元の豪農さんなどの働きで、天守が残されました。
↑本丸跡にある、松江神社。東照宮も合祀されています。
松江神社は直政を祭神として創建された楽山神社と西尾町にあった東照宮とが合祀され、明治31年に二の丸に遷座されています。
↑3つ葉葵♡社殿は堀尾忠晴が創建した当初の東照宮の社殿を、手水舎は直政の命で造られたものを移築されています。