戦国の広島の地は毛利氏の支配下にあり、毛利元就(もとなり)の時には中国地方の大半を治め、勢力は拡大します。信長にも睨まれ、対立しますが、本能寺の変後に秀吉と和議を結びます。
1558年 元就の孫の輝元は秀吉と謁見。大坂城・聚楽第を訪れ近代城郭を目にし、山城の郡山城(安芸高田市)から、広島湾頭に居城を移すことを決めました。関ヶ原の戦い後、西軍の毛利氏は周防・長門(山口)へ転封。旧毛利領の安芸・備後を拝領したのは福島正則でした。福島正則により、広島城や城下町は完成されました。
しかし、1619年大洪水による城の修復を幕府に申請せず着工した咎で転封。代わって入封したのが浅野長晟(ながあきら)です。
浅野家は関ヶ原後に和歌山に入封、その後頼宣に城を渡しています。長晟は家康の娘 振姫を正妻とする大名です。
幕末には長州戦争での幕府軍の最前線基地となった広島城。
明治になると、城内は軍事施設の増設が進み、司令部が置かれました。日清戦争(1894年)が始まると、明治天皇の本営となる大本営が建設されます(↑大本営跡)。
1945年の太平洋戦争での原爆投下により、天守は倒壊。門や櫓は焼失。
遺構は石垣や濠のみとなりますが、1958年に外観復元されています。
↑城内には被爆樹木もありました。
今では、緑の多い公園となっています。
福島正則の時だけでなく、浅野家統治時代にも洪水の記録が多く残っているそうです。一日でも早い復興を願います。